すばらしき世界 感想

似たような名前の小説を読んだなぁ、ということで見に行ったら……

 

 

いやあこれはとんでもない作品だった。

殺人罪で13年の刑期を終えた主人公。社会に戻ったがなんとも上手く生活できない。

主人公は小さいときから一般的な生活が送れておらず、反社会組織に入ったり少年院に入ったり、とそんな感じ。つまり、常識が身についていない。

そういう主人公がいろんな人間と関わりながらいろんな問題に直面しながらも、どうにか社会に収まっていく様を描いた本作品。


こう書くとまぁふーん、といった感じなんだけど、ポイントは、この『社会』の描かれ方だ。一度レールから外れた人間に厳しい社会、とかそういう描写は多いけど、コレはまぁ普遍的な話題だと思うのでどうでもいい。(どうでも良くないけど)

本題は、僕たちが過ごすこの『社会』は、もうすでに所謂ディストピアなんじゃないか、という問いかけだと思う。明らかにそういうのを意識した描写が随所に散りばめられており、それが最後にどかんと連続でくる。これがとても重苦しかった。


冒頭できっかけとして上げた小説は『すばらしい新世界』。
これは科学技術が超高度に発達した未来のディストピア社会を描いたSF小説なんだけど、あれ?この映画もしかしなくても『すばらしい新世界』の現代版じゃん……『新』が無いのってそういうこと……??となってしまった。

こういう話題はSFという味付けであれば客観的に見られるけど、コレを現代味付けでやられてしまうとなかなかにくるものがある……。


すばらしい新世界』では、あらゆる人・ものが管理され安定を保っている。そこで暮らす人間はそれに疑問を抱かないよう徹底的に教育され、常識として刷り込まされている。だから当人たちは自由意志で行動していると思っているかもしれないけど、それもすべて刷り込みによるものなんである。

それを踏まえて現代を見てみるとなかなかに怖い。

生まれた子どもは義務教育として小学校中学校を過ごす決まりとなっている。現代では保育園や幼稚園というシステムがあるから、多くの子どもは物心がつくかどうかくらいのころから親のもとを離れて生活をする。そこで何を学ぶかといえば、集団でそろった生活を送るための常識。

ごはんは何時から何時まで、おかわりは食べ始めてから何分以内まで、そのあと昼寝を何時まで、起きたら布団を所定の位置に運んでそのあとおやつを食べるから席に座って黙って待つ……で、できなければ注意と指導。そこまでする必要あるのかよ、と思ってしまうのだが、1歳児からこれを行っているのが現実だ。

これと、『すばらしい新世界』は何が違うのか。小説ではそういった刷り込みに若干失敗した主人公と、全く刷り込みを受けていない野人が出会い云々という話なんだけど、映画『すばらしき世界』の主人公はまさにそちら側の人間といえるだろう。

『社会』に馴染めない主人公が、『社会』に収まる、というのはどういうことなのか。映画後半の展開は見ている側の心に鋭い刃を突き立てる。


刷り込みによって個人個人の自由意志すらコントロールできる、とするならば、この『社会』に住んで長い僕たちが何かを判断をすること自体不毛なのかもしれない。けれど、様々な視点や価値観を想定して多角的に物事をとらえようと意識的に取り組むことは、そういう刷り込みに対する足掻きくらいにはなるんじゃないかな、と、こういう話題の作品に触れるたびに思う。

足掻かなかったら終わりだよう。