2024年5月26日にnoteで公開した記事をサルベージして再編集。
櫻坂46として二度目となる東京ドーム公演を前にして、あらためて、いままでの作品を咀嚼しながらの振り返りを行っている。01~03で記した内容がそのままのかたちで多分に含まれているため、04、とナンバリングこそしているものの、これを01として読んでも差し支えないはず。むしろ、その方が良いかもしれない。
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2015年に欅坂46としてスタートし、五年後に改名し、そこから数えて四年目となる2024年の櫻坂46。このグループが歩んできた道のり、そして現在の立ち位置を、作品(=表現)という観点を中心にして一本の流れとして捉えていこうとするとき、私たちはそこに、私たち自身のすがた、つまり、この喧噪の時代のうちで揺らぐ現実の人間たちのすがたを映し見ることになる。そこにはアイデンティティに関する問題が通底している。
書こうとしていることと、その理由について。
櫻坂46は2024年6月、三度目の東京ドーム公演を行う。一度目は改名前、欅坂46として。二度目は櫻坂46として、前キャプテン、菅井友香の卒業の舞台として。そして三度目、8thシングル『何歳の頃に戻りたいのか?』を引っ提げて回るライブツアー「4th ARENA TOUR 2024 新・櫻前線 -Go on back?-」の追加公演として。
躍進の2023年。その地続きにある、2024年の今。グループの勢いは未だ、留まるところを知らない。前を向いて順調に歩を進めているように見える。絶好調と言っても過言では無い。ライブは楽しい。制作の質も優れている。コミュニティの空気感だって、極めて良い……ように見える。
しかし、ふと落ち着いてこの状況を眺めるとき、自分はそこに、何か、危うさのようなものを感じることがある。そしてそれは、2023年の秋ごろあたりからずっと、自分の内で見え隠れしているらしい。この得体のしれないナニカは一体どういうものなのか。その輪郭を捉えてみたい。というより、捉えなければいけないような、そんな気がしている。
このままでは三度目の東京ドーム公演を観に行くことができない、とまでは思わないまでも、やはり、このような状態のままで、あの場所での公演を観たいとは思えない。後に触れることになるが、東京ドームはグループにとって、というより、グループを見続けている自分にとって、因縁とも言えるような場所になって、しまっているのだから。
自分の内でたびたび顔をのぞかせてくる、ナニカ。これを捉えるには、グループの今をしっかりと見定める必要がありそうだ。そして、そのためにはグループの今に至るまでの道のりを捉えることが欠かせない。このとき、積み重ねてきた数々の制作をあらためて読んでいく営みは大きな助けになると思う。グループ、そしてメンバーの状況そのものと制作内容の間に密接な繋がりを見いだす捉え方は(これから言及していくことになるが、ならざるをえないが)極めて危険な側面を持つ。しかし、アイドルというコンテンツの根底にある前提、様々な二重性を前にして、両者の繋がりを否定することはできない。表現する側も、表現を受け取る側も、表現自体に全く影響を受けないなんてことは現実的に考えられない。 ゆえに、こういった読み方には少なくない意味を見いだせる。
絶好調に見える今、この瞬間の解像度を上げるために過去を読む。そして、すでに記したように、そこに通底するのは一貫してアイデンティティに関する問題なのだから、これを捉えようとするうえで、私たち、現実の世界に生きる人間たちが辿ってきた価値観や思考様式の変化、つまり、歴史は、当然ながら参考になる。
というわけで遠回りにはなってしまうが、まずは、現代への大きな分岐点となった、近代という時代にGo on backするところから、話を始めていきたい。
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君は君らしく生きていく自由があるんだ
大人たちに支配されるな
欅坂46『サイレントマジョリティー』
科学技術と啓蒙思想の発展、それらに端を発する産業革命と市民革命によって用意された近代という舞台。その壇上に上がる自由で平等な個人としての人間たち。
宗教、階級、伝統、共同体といった、これまでの社会において人間を厳格に規定していたさまざまな枠組みが瓦解していくなかで、人間は自由と平等を獲得する。そういう人間を構成単位とする、個人主義の社会ができあがる。 今に生きる私たちはみな、それぞれが固有の意志を持ち、それに基づく価値判断を行っている、という自覚症状がある。ゆえにそれを前提として称揚する、自由で平等な個人主義の社会という発明は、私たちにとって大きな価値がある……という常識を私たちの多くは持っている。
しかしこの発明は、必ずしも良い影響のみをもたらすものでは決してない。
らしさって 一体何?
あなたらしく生きればいいなんて
人生がわかったかのように上から何を教えてくれるの?
周りの人間(ひと)に決めつけられた
思い通りのイメージになりたくない
そんなこと 考えてたら眠れなくなった
だからまたそこの角を曲がる
欅坂46『角を曲がる』
社会において人間を外側から規定する、さまざまな表面上の枠組みが取り払われていくことで、その中に生きる人間は自由と平等を獲得する。しかしそれは、みな等しく、剥き出しの個人になる、ということでもある。自分という存在を位置づけるものや、自分が価値判断を行う際に持ちいる物差しは、自らによって自分の内側からそれぞれが見いだすものだと捉えられるようになる。
個人主義の社会は私たちに「自分らしく生きよ」とだけ、優しく、そしてぶっきらぼうに言い放つ。
ここに根本的で致命的な問題がある。
他の動物に比べて極めて未熟な状態で生まれてくる人間は、他者からの働きかけ(=社会において自らを外側から規定するさまざまな枠組み)によって自らのアイデンティティを徐々に形成していくしかない。もっとも根源的な話をしてしまえば、私たちは言語を用いて思考する、世界を意味付けていくが、その言語からして、もとより自らのうちにあるものではない。人間は他者から与えられた借り物の言語を用いることでしか、思考することができない。世界を認識することができない。
私たち人間が健康的に生存していくためには、この問題を乗り越える必要がある。しかし、自由で、平等で、「自分らしく生きよ」とだけ言い放つ個人主義の社会が広く浸透し、それが素朴に捉えられるようになるとき、その道は無かったことにされてしまう。
たしかに、宗教、階級、伝統、共同体といった枠組みは、個人の意志を抑圧する機能を有している。しかし、それらは、人間それぞれのアイデンティティを外側から規定する、ある意味、拠りどころでもあるはずだ。それらを取り払うことで成立し、素朴に捉えられるようになった個人主義の社会において、その代わりとなるものは自らの内側にしかないとされる。ただし、当然ながらそれは、かつてのように万人が自明のものとして共有できる類のものではないのだから、したがって、個人主義の社会に生きる人間は慢性的な不安を抱えてることになる。このような話題について、政治学者の宇野重樹は、アレクシ・ド・トクヴィルによる議論を参照しながら、以下のように纏めている。
自分が「オンリーワン」な存在であることに誇りを感じる個人は、同時に自らが、同じく自分を「オンリーワン」だと思っている大勢のうちの一人にすぎないこともわかっている、ということになります。結果として、自分らしくあることに人一倍敏感な平等社会の個人は、逆説的に、自分の同等者の総体である社会の声に対し、無力感にさいなまれてしまうのです。
宇野重樹『〈私〉時代のデモクラシー』岩波新書 P.14
無力感にさいなまれる個人、社会のなかで宙づりになっている個人は、自分という存在を規定してくれる、分かりやすい「何か」を求めずにはいられない。自由や平等といった概念は、実のところ、非常に難しい。そしてそれらを前提とする個人主義の社会も難しい。かけがえのないものだと思えると同時に、とても重たい。
私たちは今、非常に難しい時代を生きている。
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欅坂46が描くもの、「欅坂46らしさ」について。
この流れを踏まえたうえで、欅坂46の作品に繰り返し登場していた、アイデンティティに関する問題と対峙する人間の描かれ方と、グループ自体が辿ることになった道のりをあらためて捉えていく。欅坂46が描いていた「自分らしさ」、そして「欅坂46らしさ」を巡る問題とはどのようなものか。
絶対的センター、というアイコンを作りあげ、先ほど記してきたような変化の地続きにある今に生きる人間たちの潮流に合う、ウケの良いイメージ(例えば、大人に歯向かい、社会に中指を突き立て、もしくは、自己に閉じこもり、どちらにせよ他者を否定することで、自らの立ち位置、「自分らしさ」をなんとか確保しようとする、といったもの)を、分かりやすく前面に出す制作やプロモーションを連続させること。所謂「欅坂46らしさ」の確立は、グループの躍進に大きく貢献した。
特に顕著だったのは、4thシングル『不協和音』と、1stアルバム『真っ白なものは汚したくなる』で間違いない。
I am eccentric 変わり者でいい
理解されない方が よっぽど楽だと思ったんだ
他人(ひと)の目 気にしない 愛なんて縁を切る
はみ出してしまおう 自由なんてそんなもの
欅坂46『エキセントリック』
表題曲の『不協和音』は言わずもがなとして、カップリング曲の『エキセントリック』、『真っ白なものは汚したくなる』のリード曲『月曜日の朝、スカートを切られた』、どれも所謂「欅坂46らしさ」に溢れている。
風が止んだって
ハッピーでいられるよ
そばにいるだけでいいんだ
そんな生き方も
悪くないんじゃない?
愛しさがずっと続くだろう
ハグでもキスでもない曖昧なままで So cool!
欅坂46『風に吹かれても』
それらに続いて発売された5thシングル表題曲『風に吹かれても』は、この行き過ぎたイメージを柔らかくしようとした作品だと捉えられる。しかし、この楽曲は当時「笑わないアイドルが笑った!」的なプロモーションが音楽番組等において大量に行われた。結果、これまでに積み上げてきた所謂「欅坂46らしさ」というイメージがさらに固まることになった。意外に思われるかもしれないが、『風に吹かれても』は発売当時、不評な意見がそれなりに多かったことも付け加えておく。
目の前のガラスを割れ!
握りしめた拳で Oh! Oh!
やりたいこと やってみせろよ
おまえはもっと自由でいい 騒げ!
欅坂46『ガラスを割れ!』
そして6thシングル表題曲『ガラスを割れ』。すっかり凝り固まってしまった所謂「欅坂46らしさ」というイメージを壊して次の領域に進んで行こうとする楽曲、という読み方をすんなりできる楽曲だが、これも今までの枠組みの中で消化されてしまったように思える。割られるべき「目の前のガラス」は「眼前に広がる理不尽な社会」として捉えられた。
素朴に捉えられた個人主義の社会に生きる不安な個人に対してドラッグ的な快楽を提供する、所謂「欅坂46らしさ」に、自分を含め、多くのファンが熱狂していた。コンテンツの方向性の舵を取る大人たちも、みな、熱狂していた。自身の身体によってこれを表現するメンバー本人たちも、少なからず影響を受けていた。人格形成の真っただ中、多感な時期にあったメンバーにとって、それはもはや必然とも言える。
作品と表現者は固く結びついていった。欅坂46の活動は、所謂「欅坂46らしさ」によってがんじがらめになっていった。このような状況のまずさは明らかだが、そもそも「自分らしさ」という問題についての葛藤に対するアプローチは、所謂「欅坂46らしさ」の中で繰り返し表現されていたような類のものだけで本当に良いのだろうか、という疑問も大きい。大人に歯向かい、社会に中指を突き立て、もしくは自己に閉じこもり、どちらにせよ他者を否定することで、自らの立ち位置、「自分らしさ」を確保しようとする。それが「自分らしく生きる」ということなのか。「自分らしさ」とは、本来的に、他者の存在を前提にして形成されていくものなのであり、である以上、その前提から目を瞑りながら、頑なに大切にしようとする、その、自らの思う「自分らしさ」なぞ、実のところ、ただの空虚でしかありえないのではないか。そのような素朴な捉え方のままでいられるのは、せいぜい、子どものうちだけなのではないか……
Blah Blah (Hey!)Blah Blah (Hey!)
孤独なまま生きていたい
Blah Blah (Hey!)Blah Blah (Hey!)
だけど一人じゃ生きられない
欅坂46『アンビバレント』
いや、もちろん、そんなことは誰しもが本当は、分かっている。自分が欅坂46に傾倒したのはちょうど大学を卒業し、社会人になりたての時期だった。満員電車の中でイヤホンを付け、大音量で『エキセントリック』を再生する。居心地の悪さを感じている自分が、楽曲の主人公である「僕」によって承認されたような気になる。安心する。そして薄っすらと、ある種の恥ずかしさがこみ上げてくる。これでいいのだろうか、と。
しかし、いちど確立したあまりにも強くて分かりやすい、そして心地の良いイメージ、所謂「欅坂46らしさ」を手放すことはどうしてもできなかったらしい。
黒い羊 そうだ 僕だけがいなくなればいいんだ
欅坂46『黒い羊』
8thシングル表題曲『黒い羊』は、まさに所謂「欅坂46らしさ」の最終到達地点として捉えられる。ところが『黒い羊』は、グループが初めて東京ドームで行った公演「欅坂46 LIVE at 東京ドーム ~ARENA TOUR 2019 FINAL~」において(当時の最新シングル表題曲であったにも関わらず)セットリストから外されていた。タイトルからも分かるとおり、この公演は2019年に行われたアリーナツアーの追加公演としての位置にある。しかし内容は全くもって別物で、そして、このアリーナツアーにおいても『黒い羊』は披露されていない。
そして、本公演の話題に触れたからには、そのダブルアンコールで披露された平手友梨奈によるソロ楽曲『角を曲がる』に注目しないワケにはいかないだろう。この楽曲は極めて異質な立ち位置にあるからだ。
そもそも、この楽曲は最初から欅坂46の名義で世に放たれたものではない、というのがポイントだ。平手友梨奈が主演を務めた『響 -HIBIKI-』という映画が2018年9月に公開され、そのエンドロールで流れたのが、平手友梨奈ソロ名義としての『角を曲がる』だった。この楽曲は映画公開後にCDが発売されるわけでも無く、音源が配信されるわけでも無く、突如、一年後の東京ドーム公演、そのDay2、ダブルアンコールで披露され、その後、欅坂46のYoutubeチャンネルにてMVが公開された。 このとき、名義は平手友梨奈から欅坂46に変更された。
自分はそこに、意図を読まずにはいられない。
他者から提示される「自分らしさ」との折り合いをつけられず、どうすれば良いのかが分からなくなり、一人きりで角を曲がる孤独な散歩者。そのすがたはグループが辿ってきた道のりと綺麗に当てはまるように見えてしまうし、「自分の同等者の総体である社会の声に対し、無力感にさいなまれてしま」った、自由で平等な個人主義の社会に生きる、自己矛盾を抱えた個人のどん詰まりとも捉えられてしまう。
『ガラスを割れ!』で始まり『角を曲がる』で終わる、そんな、東京ドーム公演。
このような読みを踏まえれば、東京ドーム公演に際して唐突に提示された「破壊と再生」というテーマや、それに合わせて物販に追加された「Be yourself」とだけ書かれた奇妙なグッズの数々などの裏側に、様々な含みを見いだすことができる。
しかし、2024年現在の私たちには分かるとおり、あのとき、グループの再生は叶わなかった。そもそも破壊すること自体ができなかった。
きっと、一番比べちゃうのは自分たちであって……
「僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46」守屋茜の台詞
何かに追われて、何かが自分の前にチラつくっていうのが、これからの欅坂にとってプラスになることでは無いのかなって。
「僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46」小林由依の台詞
新しいグループになるためにはやっぱり今までのイメージっていうのがちょっと邪魔になるというか……
「僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46」菅井友香の台詞
ファンも、コンテンツの舵を取る大人たちも、そしてメンバーたち自身も、この所謂「欅坂46らしさ」という呪縛を解くことができなかった。
未知の脅威によって社会全体がパニック状態に陥ったという不運も重なり、発売が延期されていた9thシングル『10月のプールに飛び込んだ』の制作は中止となり、そのカップリング曲として予定されていた『誰がその鐘を鳴らすのか』を、形式的に最後の楽曲として位置づけ、欅坂46は幕を閉じる。
だけど問題は
誰がその鐘を鳴らすのか?
この世の中に神様はいるのかい?
会ったことない
その綱を奪い合ってたら
今と何も変わらないじゃないか
そばの誰が誰であっても鳴らせばいいんだ
信じるものがたとえ違ってても
そう平等に…
欅坂46『誰がその鐘を鳴らすのか?』
いったいどこで道を間違えたのか。何がいけなかったのか。どうすれば良かったのか。欅坂46を捉えなおす試みはすでに何度も行っているが、そのたびに、心の中にはモヤモヤが残る。そのうえで、時間を少し、進めてみたい。
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三作品を通して行われる「やり直し」と、その下地としての『桜月』について。
櫻坂46の2023年における大躍進を支えた作品、6thシングル表題曲『Start over!』と、7thシングル表題曲『承認欲求』。そして、それらに続く8thシングル表題曲『何歳の頃に戻りたいのか?』。三作連続で表題曲のMVの監督を務めた加藤ヒデジンによれば、これらの作品は一連の流れとして捉えることのできる制作がなされており、そこにはやはり、アイデンティティに関する問題が通底している。
『Start over!』。やり直す。何を?……というよりも、なぜこのタイミングで?という疑問が先に浮かぶかもしれない。改名し、1stシングル『Nobody's fault』で再デビューしてからすでに三年が経っている。だから、まずはこの疑問を解決する糸口を探ってみたい。注目したいのは『Start over!』が初めて披露されたタイミング。それはグループにとってどういう位置づけで、その直前には何が行われていたのか。
2022年11月、前キャプテン、菅井友香が卒業する。年が明けて、グループに新しいメンバー、三期生が加入する。2023年2月に5thシングル『桜月』が発売され、それを引っ提げて回るライブツアーが4月から開催される。その千秋楽直前に『Start over!』のMVが公開され、そして、千秋楽のアンコールが初披露の舞台になる。『桜月』を軸に据えたライブツアー。新キャプテン、松田里奈体制による初めてのライブツアー。三期生という、欅坂46だった時期の無いメンバーが加入してから回る、初めてのライブツアー。その最後に、やり直しの宣言が行われている。
2023年4月に発売された雑誌『BRODY 4月号』を読み返してみる。そこでは5thシングル表題曲『桜月』に関する特集が47ページに渡って大々的に組まれており、センターを務めた守屋麗奈やその他メンバーのほか、振付師のTAKAHIRO、MV監督の金野恵利香、アートディレクターの安田晃大が前面に乗り出すかたちで、『桜月』の制作を、そして、グループそのものを、様々な角度から言語化する営みが展開されている。表紙に付されるキャッチコピーは「櫻坂46“第二章”開幕」。
『桜月』によって櫻坂46「第二章」の幕が上がる。では『桜月』という楽曲は一体どういうものなのか。ここであらためて、捉えてみたい。
暗い夜空の先 確かに今も 満開の桜が見える
あの花は僕が大好きだった人だ
大人になって 夢や理想が思うようにならなくなっても
あんなに美しい散り方ができたらな
櫻坂46『桜月』
MV監督を務めた金野恵利香によれば、『桜月』のテーマは「別れ」、そして「審美眼」だとされる。これを踏まえたうえで歌詞を読み、MVを観ていく。
大切な人との「別れ」を経験した主人公の守屋。12人のメンバーによって模された時計が逆向きに回りはじめる。守屋はその中心にいる。ときに本を広げ、ときに瞼を閉じ、その人との思い出、過去を振り返っていく。もちろん、過去は美しいだけではない。すれ違い、葛藤、閉塞感、様々な負の側面も想起される。抱いていた夢や理想は思うようにならない。しかし、それらすべてを踏まえたうえで、過去を美しいと捉えていく。閉じた瞼の先に見える夜空。そこに映る満開の桜。それを見いだす「審美眼」。時計は動き出す。そして、肯定的な新たな一歩が踏み出される。
これ以上、言葉の間を埋める必要は無いだろう。『桜月』は、まさに櫻坂46の「第二章」、その始まりの楽曲として相応しい読みができる、そういう「含み」のある楽曲として作られているように感じられる。
では、新たな一歩が踏み出され、「第二章」が始まり、そしてやり直しの宣言が行われるにあたって振り返られることになった過去、すなわち、櫻坂46の「第一章」とは、どのようなものだったのか。
進めすぎた時間を、今度は少し、巻き戻してみよう。
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蓋をすることで行われる欅からの離反と、それに起因する軋轢について。
私たち欅坂46は、この5年間の歴史に幕を閉じます。そして欅坂46とは、前向きなお別れをします。10月に予定している欅坂46のラストライブにて、欅坂46としての活動に区切りをつけさせていただきます。そして新しいグループ名となり、生まれ変わります。
日刊スポーツ『菅井友香「欅坂46と前向きなお別れ」スピーチ全文』
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202007160000949.html
所謂「欅坂46らしさ」という幻想、呪縛を、グループ名を変更するという荒業によって解こうとした欅坂46→櫻坂46。当時のキャプテン、菅井友香による改名発表のスピーチや、その後の各種メディアにおけるインタビューなどにおいて、否定的な意味での改名では無い、ということが繰り返し強調されていたが、そもそも通常であれば改名なぞする必要が無いことを踏まえれば、そこに否定的な要因があったことは明らかで。改名前後、様々な場所で多くのメンバーが葛藤を露わにしていたことからも、それは容易に読み取れる。
これを肯定的に捉えるのであれば、それでも前向きな改名であると主張し続けたのは、欅坂46としての五年間そのもの自体を否定的なかたちで終わらせたくなかったからだろう、という読みができる。もちろんそれもあるだろう。
しかし、ここまでの読みを踏まえるならば、残酷ながら、このように捉えることもできそうだ。グループを取り巻いてたあらゆる立場の人間の手によって、所謂「欅坂46らしさ」という呪縛が作り上げられ、それをどうにかして解くべく、グループは改名せざるを得なくなってしまった、という、その事実を認識することで生じざるをえない罪悪感、これをうやむやにしよう、という意図が働いていたのではないか、と。
みなが共犯者で、みながそこから、目を背けた。
櫻坂46としての1stシングル表題曲『Nobody's fault』。誰のせいでもない。誰のせいでもないが、誰もが、悪い。しかしそれを、包み隠したい。うやむやにしてでも、前に進まなければならない。そうでもしなければ、グループ自体が瓦解してしまう。
誰鐘のラストの振付でも、欅坂46との前向きな別れが表されていますね。
「はい。欅のエンブレムを解き放ってから箱にしまって、大切に取っておくという意味が込められています。」
『月刊B.L.T. 2020年10月号』菅井友香インタビュー
大切に取っておくというより、むしろ、蓋をして見えなくする。とはいえ、欅坂46としての五年間が無かったことになるわけでは決してない。根底部分に処理することを保留にした不発弾を抱えたまま、櫻坂46としての活動は始まる。ゆえに、グループが辿ることになる道のり、そして表現は、複雑な色味を呈するようになる。それは深みとして機能する一方で、多くの軋轢を生んでしまう。
所謂「欅坂46らしさ」からの離反、というテーマ設定。
櫻坂46としてのデビューシングル『Nobody's fault』の三本柱、『Nobody's fault』『なぜ 恋をして来なかったんだろう?』『Buddies』には、それが明確なかたちで描かれている。他者を否定し、自らの内側に籠る、もしくは分かりやすい何かに飛びつくことで自分を守る、から、矢印を外側に向けること、そして、自らの内に信念を持つことへの変化。
No! No! No! 他人(ひと)のせいにするな
鏡に映ったおまえは誰だ?
勝手に絶望してるのは
信念がないからだってもう気づけ!
櫻坂46『Nobody's fault』
幸せは 参加すること
櫻坂46『なぜ 恋をして来なかったんだろう?』
しかし、現実は複雑で難しい。人間は、変わろうとしたところで、なかなか変われるものでは、もちろん、ない。
BANされても
禁止されても
ダメだって言われても
もう 今さら違う自分に
なれるわけないじゃない?
櫻坂46『BAN』
矢印を外側に向ければ、当然ながらそこには自分とは異なる存在、自分にはどうすることもできない存在、他者がいる。そして、他者との関わりには必ず、摩擦が生じる。しかしそれ自体を拒否することは、前提の否定であり、ナンセンスであろう。
何回 ノックしたって埒が明かなくて
こっちと向こう 言語が違う 異なる世界
何が正しいなんて 誰もわからない
大事なのは その仕切りを壊すこと
櫻坂46『断絶』
ゆえに、櫻坂46の「第一章」を締めくくる位置づけにある1stアルバム『As you know?』のリード曲が『摩擦係数』であること、そして『摩擦係数』が現在、櫻坂46の名刺代わりの一曲として位置づけられていることの意味合いは非常に強い。
このままで THE ENDか
ぶつかりあって 分かり合うしかないんだ
悪いけど ほっとけない
もっともっと熱くなっちゃいけないか?
摩擦
櫻坂46『摩擦係数』
所謂「欅坂46らしさ」からの離反を掲げつつも、すんなりそれに順応できるわけもなく、しかしそうであっても、アイデンティティに関する問題について、より現実的なかたちで、大人として、向き合おうとするさま。このような緊張状態だからこそ、ときに『条件反射で泣けてくる』のだ。
後になって振り返ると あの頃ってあれはあれで楽しかったなって
思えて来るもんなんだな
櫻坂46『条件反射で泣けてくる』
過去に蓋をしつつも、制作においては、過去からの一本の筋が明確に読み取れる。
ここにいてもしょうがないさ
間違ってたのは自分だ
行き止まり(dead)行き止まり(end)
過去と未来 繋ぐ今をどう生きるか?
櫻坂46『Dead end』
所謂「欅坂らしさ」からの離反。その先へ。
しかし、この一本の筋が分かりやすいかたちでファンに提示されることは、櫻坂46「第一章」の大部分においては、ほぼ無かった。 過去に蓋をしているのだからあたりまえと言えばあたりまえなのだが、そもそも、作品の意味を前面に提示すること自体が明確に避けられていたことを強調しておきたい。ストーリーや世界観を重視したライブは行われなくなり、楽曲やMVの解釈に関する言語化も抑えられるようになった。それらは意味の固定化に繋がりやすいものだから、かつてのようなコンテンツ全体の硬直化を避けるために、といった意図が働いていたのかもしれない。気づけばいつからか「世界観」という言葉は「世界」という言葉に置き換えられるようになっていた。これもおそらく、意図的だ。
そして、何より伝えたかったのが楽曲の捉え方といいますか、解釈の仕方が本当に人によって違うのだなと感じるんですよ…最近は余計に
私自身もその面白さに気づかされたと言いますか、また一つパフォーマンスの楽しさを見つけられました
その出来事が本当に嬉しかったです
皆さんにも沢山自分なりの解釈を見つけていただければと思います
すごく楽しいです、本当に
藤吉夏鈴 公式ブログ『#3____1stシングル』2020/12/11
https://sakurazaka46.com/s/s46/diary/detail/36907
解釈をファンの側に全面的に委ねる、それを促すという方針が、コミュニティ内の豊かな土壌の形成に大きく寄与していったことは間違いない。ただし一方で、おそらくこのような方針を選択したがために、グループおよびメンバーと、一部のファンの間で軋轢が生じてしまうケースが少なくなかったということは、忘れずに記しておかねばならない。
例えば、2021年7月9~11日の三日間にわたって、富士急ハイランド・コニファーフォレストで開催された「W-KEYAKI FES.2021」。このライブの後に起きた騒動は、私たちの記憶にいまだ、深い傷を残している。
日向坂46との合同開催で行われたライブ、その初日は櫻坂46による単独公演であり、それは改名してからグループ全体で行う、初めての大型ライブだった。過去に蓋をした櫻坂46は、その時点で持っている櫻坂46名義の楽曲すべてを使って、できるかぎりのパフォーマンスをした。(シングルが二枚しか発売されていないため)そもそも曲数が足りない。偏ったフォーメーションの楽曲しか持っていなかった(=前列八名を固定して最後列のメンバーのみを入れ替えるという、変則的な選抜制度を取っていた)ことから、広い会場に複数設営されたステージを移動する時間を埋められるような、一連のセットリストを組むこともできない。結果、ほぼすべての楽曲の間にダンストラックを挟んでライブを乗り切る、という荒業が行われた。
欅坂46から櫻坂に変わって、ここに立てていることが本当に誇りです。私は櫻坂46になって、改めて仲間の大切さに気付きました。辛いときには支え合い、嬉しいときには分かち合える、そんな存在が近くにいることが本当に幸せです。みなさん、いつも応援ありがとうございます。
今日からみなさんは「Buddies」です。
山﨑天のスピーチ「W-KEYAKI FES.2021」一日目『Buddies』曲間
グループはこの苦境をなんとか乗り切った。それを演出するかのように、公演中、降り続けていた雨は、徐々に弱まっていった。
しかし、ライブ終了後、一部のファン(それも少なくない数のファン)からは「物足りない」「欅坂のときの曲を聞きたかった」といった声が上がり、それがメンバーたち自身にも届く事態が発生してしまった。前者の意見に関してはたしかに仕方のない部分もある。が、後者については慎重に考えねばならないはずだ。
求められるものが櫻坂の曲ではなく、
欅坂の曲ということが
やっぱり自分の中では凄く悔しくて
櫻坂としての楽曲が
皆さんの心にまだまだ届いていないんだな、
と改めて実感していたりしました。
小池美波 公式ブログ『☺︎』2021/7/14
※ブログクローズドにつき、リンク無し。
向いている方向、意識の食い違い。そしてそれは、櫻坂46「第一章」の最終節、2022年11月8~9日に開催された「2nd TOUR 2022 “As you know?” TOUR FINAL at 東京ドーム 〜with YUUKA SUGAI Graduation Ceremony〜」において爆発してしまう。
二度目の東京ドーム。櫻坂46としては初めての東京ドーム。キャプテン、菅井友香の卒業の舞台。その一日目。本編を〆る楽曲『摩擦係数』の終了直後、会場全体が白から緑へと変わっていった。そしてアンコールが明け、菅井友香の卒業セレモニーが始まった。欅坂46時代の『Overture』が流れると同時に、大多数の観客の内で湧き上がった「何か」が放出され、それがどよめきとなった。一曲目『10月のプールに飛び込んだ』のイントロが流れ出したそのとき、誰かの嗚咽、むせび泣く声をマイクが拾っていた。そのマイクはすぐに電源を落とされた。曲中、森田ひかるはステージ上にいなかった。 そして、二日目。本編後半、『Buddies』二番の冒頭、各々が自由にポーズを決める箇所にて、藤吉夏鈴は頭を下げ、その前で手を組み、観客側に向けて祈りを捧げていた。
これは行われていたことを表面的に羅列したにすぎず、その裏側は現在に至るまで明かされていない。今後も明かされないような気がしている。ゆえに、その真意は読むしかない。そして自分はそれを、櫻坂46の根底部分にある「処理することを保留にした不発弾」という問題が前景化した瞬間であったと捉えている。
所謂「欅坂46らしさ」からの離反を急ぐにあたって過去に蓋をし、その清算を明確なかたちでは行ってこなかった櫻坂46。意味を前面に提示することを控えるようになった櫻坂46。しかし、ここまでに記してきたように、グループやメンバーの振る舞い、表現される作品を見ていけば、そこに過去と今を繋ぐ一本の筋と、グループが、メンバーが、今、向いている方向そのものを読むことは容易にできる。
そもそも「2nd TOUR 2022 “As you know?”」の本編は『条件反射で泣けてくる』に始まり、『摩擦係数』で終わるのだ。各々がそれらを自らの内によって解釈し、「過去」を消化すること。おそらく期待されていたのはそういうことで、しかし、それはまるで、伝わっていなかったのではないか……
そしてその一か月後、2022年12月8~9日に「2nd YEAR ANNIVERSARY ~Buddies感謝祭〜」が開催された。櫻坂46「第一章」のポストクレジットシーンとして捉えることのできる本イベントは、そのタイトルからも分かるとおり、所謂ファンミーティングのような形式で行われた。そこでは、クリエイティブ面を中心に櫻坂46において多岐にわたる役割を担う、振付師のTAKAHIRO自らがステージに立ち、自身が組み立てるパフォーマンスを軸に、楽曲およびグループそのものの解説、言語化を、すなわち共有を行う時間が大々的に設けられた。
なぜ、このタイミングでこのような試みが行われるのか。なぜ、「第二章」の始まりが『桜月』で、直後、その解説が雑誌において大々的に特集されるのか。そしてなぜ、『桜月』を下地にして『Start over!』、やり直しの宣言が行われるのか。
ここまでくれば、すべては言うまでもないことのように思えてしまう。
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あらためて欅坂46を捉えなおし、櫻坂46の「第一章」を捉えなおし、「第二章」の始まりである『桜月』を捉えなおし、これでようやく、『Start over!』『承認欲求』『何歳の頃に戻りたいのか?』という三部作に向き合う準備が整ったと思われる。これでようやく、櫻坂46の今に向き合うことが、できそうだ。
6thシングル表題曲『Start over!』。やり直す。MV監督、加藤ヒデジンによれば、そのMVの中で描かれるのは「凝り固まったものを破壊するような単純さと無邪気さ」である。
楽曲の主人公、藤吉は、閉塞的なオフィスの中で書類をぶちまけ、花瓶から花を引っこ抜き、コピー機を床に落とし、ラックを豪快に倒して暴れまわる。中盤、退屈気に佇む小林の腕を掴んで引っ張っていき、壁を打ち破り、熱い抱擁をし、スパークラーによって煌びやかに演出された空間で、二人だけの世界を踊る。噛み締める。そして「君は僕の過去みたいだな 僕は君の未来になるよ」という一節から、ラストの解放へと向かっていく。
このMVにおいて自分が最も注目したいのは、これら一連の流れが、主人公である藤吉の内面においてなされる妄想だと読める演出にある。 冒頭部分、肘をついて、なにか物言いたげな表情を浮かべる藤吉は、鼻血を垂らしながら机に突っ伏してしまう。肘にぶつかった青いマグカップが床に落ち、藤吉自身もそれに続く。そして、その直後のカットで無邪気な笑みを浮かべながら起き上がり、上に記したような展開がなされていく。 エンディングを見ていくと、この一連の流れの先で、冒頭部分に描かれた床に落ちていくマグカップの絵が逆再生されて、机の上に戻っていく。合わせて、机に突っ伏していた藤吉も逆再生で上半身を起こす。そして何事も無かったかのように、藤吉が暴れ回る前の、元のオフィスのカットが提示される。
なるほど。藤吉は実際に暴れ回っていたわけでは無さそうだ。そもそも、床に倒れ込んですらいないではないか。机に突っ伏しながら行われる妄想のなかで「凝り固まったものを破壊するような単純さと無邪気さ」が描かれている。そして、妄想を終えた藤吉は垂れる鼻血を手首でぬぐい、左の口角を血で赤く染めながら、含みのある笑みをこちらに向ける。
足踏み、心臓の鼓動、そして、鼻血。『Start over!』の主人公は、自らの内面において自由で主体的な自分を発見し、高揚感を感じている。
このような話題について、政治学者、フランシス・フクヤマは、著書『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』の中で「「アイデンティティ」という概念の登場は、社会の近代化が始まるとともに現れた」と捉えながら、以下のように記している。
アイデンティティ概念の土台となったのが、自分の内面と外面は異なるという考えである。(中略)近代のアイデンティティ概念は〈ほんものの自分〉に至上の価値を見いだし、表現されていない内面の存在を認めることに重きを置く。つまり、外面の自己ではなく内なる自己を重視する。
フランシス・フクヤマ(訳:山田文)『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』朝日新聞出版 P.48
外面の自己、つまり、宗教、階級、伝統、共同体といった社会の枠組みによって定められる自分から、内なる自己=「ほんものの自分」への意識の移行。そのような枠組みを取り払っていくことと社会の近代化は密接に繋がっているのだから、近代に生きる人間において、枠組みによって定義されない内なる自己への意識が高まるのは必然と言える。そしてフクヤマは、このアイデンティティという概念の登場を宗教改革と結び付け、この概念、人間の外面と内面を区別し、このうち内面の方を重視するという考え方の出発点になる人物が、宗教改革の中心人物、神学者のマルティン・ルターだと指摘する。
ルターによれば、カトリック教会が提示する儀式や行いをいくら重ねたところで、それは外面を取り繕うものにすぎず、人間に真の変化をもたらすものでは決して無い。なぜなら、神の恵みは、神の自由な愛の行為によってのみ授けられるのだから。人間は目に見えない内面の信仰によって、義とされる。
しかしフクヤマは、ルターはあくまで出発点にすぎず、現代のアイデンティティ理解からは遠いところにあると捉えて、その理由を次のように纏めている。
ルターは内なる自己の自由を称揚するが、この自己にはただひとつの面しかない。信仰、神の恩寵を受け入れることである。(中略)第二の理由は、彼の考える内なる自己が、新たに発見した自由を公に承認されることを求めていなかった点にある。
フランシス・フクヤマ(訳:山田文)『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』朝日新聞出版 P.52
ここで私たちに馴染み深い言葉が登場する。そう、「承認」である。
キリスト教の精神を前提とした人間の外面と内面の区別、そして内面の重視は、その前提からして、着地点が「神からの承認」となる。ゆえにこの前提が崩れれば、当然ながら、その着地点も変化していく。ここまでを踏まえたうえで、7thシングル表題曲『承認欲求』を捉えていきたい。
『承認欲求』のMVは、主人公の森田が、教会で祈りを捧げながら平穏な顔付きをしているカットから始まる。しかし森田は直後、イラつきを感じる。掛けていたメガネを床に落として、踏み潰す。ダンスシーン。舞台は聖堂から画廊へと移行していく。展示されている絵画の数々は、画面上、右側から左側に向けて流れる一本の時間の筋を感じさせる。そして中央部、モネの『睡蓮』を背景にして森田の遊離が描かれ、ラストのダンスシーンに繋がっていく。
社会の近代化と、人間の思考様式の変化。その出発点についてフクヤマがルターの宗教改革に着目したように、哲学者のハンナ・アレントはその著書『人間の条件』の中で、ガリレオ・ガリレイによる天体望遠鏡の発明を強調している。
ガリレオが行ったのは、それまで誰もしたことがなかったこと、望遠鏡を使って宇宙の秘密を人間が「感覚的知覚の確実さをもって」認識できるようにしたことだった。人間の手の届かないもの、不確かな思弁や創造に頼るしかないと思われていた領域に、地球に拘束された被造物が手を伸ばし、その肉体に制約された感覚器官で捉えることができるようにしたのである。
ハンナ・アレント(訳:牧野雅彦)『人間の条件』講談社学術文庫 P.468
天体望遠鏡の発明は、世界の解像度を飛躍的に上げる。しかしそれは、人間の素朴な認識(例えば、地球の周りを星々が回っているように見えるという確かさ)の正しくなさが明らかになることとの背中合わせでもある。そして、神の被造物たる人間、神の派出所たる人間の理性によってもたらされたこの認識が正しくないのであれば、神という絶対的なはずの前提部分にも、揺らぎが生じるようになってしまう。
冒頭部分、教会で祈りを捧げる森田が着用し、直後に踏み潰すメガネという小道具と、アレントが『人間の条件』の中で採り上げるガリレオの天体望遠鏡は重なっている。神からの承認に頼れなくなった人間は、内面の自己を承認してくれる、代わりの何かを求めずにはいられない。慢性的な承認欲求にさいなまれる。
そして象徴的に映る、モネの『睡蓮』。
印象派と呼ばれた彼らが制作において重視したのはその名のとおり、個人が抱いた印象、主観であった。思考様式の変化が芸術の分野に対しても多大な影響を与えたことは言うまでも無い。近代の画家たちは徐々に既存の秩序から離れ、自らの主観を重視した制作を行うようになる。しかし、主観を重視すればするほど、できあがる作品の価値を担保する足場は崩れていく。客観性が薄れていく。当然ながら承認は得られにくくなる。印象派の技法によって作られた絵画空間は、主観と客観の力関係が極めて拮抗した場であり、だからこそ、それを背景に森田の遊離は描かれる。
加藤ヒデジンの言葉を読んでみる。人から決めつけられるもの、社会から決めつけられるもの、それらは、自らに押しつけられる「他者からの承認」と括ることができそうだ。しかし、その価値を絶対的なものとして担保してくれる足場はもうどこにもないのだから、そんなあやふやな承認でいくら自分を武装したところで、というより、武装すればするほど、自分という存在は、どんどん不明瞭になっていく。不明瞭な私、私ではない私が暴走する、私ではない私の意思に敷かれる、この私。承認欲求は治まらない。むしろ、それを埋めるために得ようとする新たな承認によって、私がどんどん、蝕まれていく。
『Start over!』の中で描かれる、自らの内面にある自由で主体的な自分を発見して高揚感を覚える人間。しかしそれは同時に、満たされることのない承認欲求という呪いを抱え込んでしまう。この呪いを根本的なかたちで解くことはできるのか。そして、それがもし、できないとしたら、私たちはどのようにして、この呪いと向き合っていけば良いのか。
櫻坂46の「第二章」、アイデンティティに関する問題を、やり直す。それは作品の中であらためて描かれていく問題であると同時に、グループの在り方そのものの問題でもある。櫻坂46とは。「櫻坂46らしさ」とは。
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こうして三部作の最後、8thシングル表題曲『何歳の頃に戻りたいのか?』にたどり着く。作品の中で描かれるもの。それを表現する櫻坂46の今。それは一体、どのようなものなのか。そこから何を、読めるのか。
8thシングル表題曲『何歳の頃に戻りたいのか?』。そのMVにおいて描かれる世界は、主人公の山﨑を震源とした、極めてポジティブに見える色味の変化で溢れている。
屋外の飲食店。主体性に欠ける複製的なウェイターの集団と、それに冷ややかな視線を向ける客たち。後者の服装は差異こそあれど似通っており、そういう意味ではどちらも複製的だと捉えられる。その中で唯一固有の色を示す山﨑は、ウェイターたちの方へと走り寄り、自らの踊りを見せつける。導かれるウェイターと、それに触発されて動を示す客たち。
舞台は室内のレストランに移る。先ほどのウェイターの衣装に身を包んだ山﨑が一人、他のウェイターや客たちの中心で踊っている。ウェイターと客、それぞれ一人ずつの腕を掴んで、舞台に引っ張り上げる。見つめ合うウェイターと客。初めは敵対するように、直後、呼応するようにパフォーマンスが行われる。それを見ながら得意気な表情を浮かべる山﨑。衣装はすでに、固有の色を示すもの(それでいて、先ほどとは違うもの)に変化している。そして自分も、と言わんばかりに立ち上がり、場のすべての人間を巻き込んで踊り出す。みな、充実感に満ち溢れ、自由に体を動かしている。その中心にいる山﨑は至福の顔付きで床に寝ころび、その後、担ぎ上げられる。
最後。舞台は再び屋外に戻り、室内でのシーンと同様にすべての人間によるパフォーマンスが行われる。中心にはやはり山﨑がいる。表情の方向性も変わらない。しかし決定的に違う部分もあり、これはある意味で最も注目すべき点かもしれない。それは、すべての人間の動きが綺麗に揃い、整っているということだ。そして、すべての人間が楽しげで、輝いている。
これらのシークエンスを挟むように、バーに一人座る山﨑のカットが提示される。
加藤ヒデジンによれば、『何歳の頃に戻りたいのか?』のMVは「自分は何色にも染まれる同調の支配」であり「締めは救済」であるらしい。『Start over!』からの流れで「利己から利他になっていって」いるらしい。 不自然さを感じる妙な言葉選びがされているように感じられるため、あらためてMVを振り返りながら、これらをひとつずつ捉えていきたい。
何色にも染まれる。
これは非常に分かりやすい。主人公の山﨑は、その身を包む衣装からして明らかなように、他とは別枠の存在としての確固たる地位を与えられている。山﨑は固有の色を示す存在として、それも、無数の固有の色を示せる存在として世界に立っている。複製的なウェイターにも、なることができる。
同調の支配。
何色にも染まれる山﨑の手によって、世界は充実感溢れるものに変化していく。なるほど、悪く聞こえる言葉選びにはなってしまうが、山﨑が周囲の人間を山﨑自身への同調の方へと(意識的にではおそらく無いにせよ)導いており、それを山﨑による、場全体の支配、という言葉で表すことは可能と言える。
締めは救済で。
終盤において、中盤からの変化をもって明確に描かれている、同調によって(=自らの立ち位置が確保されて)充実感に溢れる人間たち。その中心で悦に入る山﨑。確かに、救済という言葉は相応しいのかもしれない。
利己から利他に。
そして最後に、山﨑が利他の行動原理で動いているという捉え方がなされている。利他の行動原理によって救済の手を差し伸べる山﨑。利己的な自由を妄想する『Start over!』から、利他の行動で実際の自由を獲得する『何歳の頃に戻りたいのか?』へ。
なにやら雲行きが怪しいのではないか。
『何歳の頃に戻りたいのか?』のMVは一見、非常に前向きでポジティブな印象を与えてくれる。描かれているもののひとつひとつの表面は輝きに満ち溢れている。ところが、このように監督の言葉をひとつずつ捉えながら、そこで行われている事柄を読み進めていくとき、そこからは意外にも、ぞくりとするような概念が想起されるようになっていく。
大衆社会。カリスマ的リーダーの称揚。全体主義。例えば、こういった言葉で表すことができる概念が頭によぎる。もちろん、これらの概念を軸にして『何歳の頃に戻りたいのか?』のMVが制作されているのである、などと声高に主張するつもりは毛頭ない。繰り返すが、監督の言葉をひとつずつ捉えながらMVを読み進めていくとき、こういった概念が想起されるようになる、とだけ、言いたいのだ。そして実のところ、これは、まったくもって突飛な発想ではない。
アイデンティティに関する問題にフォーカスして『何歳の頃に戻りたいのか?』という作品を、『Start over!』からの流れで捉えようとするとき、つまり、自らの内面にある自由で主体的な自分を発見し、高揚感を覚えると同時に承認欲求にさいなまれるようになった人間、それらを構成単位としてできあがる社会の、その先に見えるすがたはどのようなものであるか、といった切り口から『何歳の頃に戻りたいのか?』を捉えようとするとき、こういった概念は予定調和的に顔を覗かせてくる。すでに、実際の人間の歴史が、そのような道のりを辿っているからだ。
例えば、アレクシ・ド・トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』の中で予言し、フリードリヒ・ニーチェが『ツァラトゥストラはこう語った』の中で物語として描き、オルテガ・イ・ガセットが『大衆の反逆』の中で正面から向き合い、そして、ハンナ・アレントが『全体主義の起源』の中でこの悪夢が現実と化す有様を生々しく残している。
もちろん自分は、それらと櫻坂46の今の在り方がピタリと重なるとは微塵も考えていない。櫻坂46の今が全体主義的であると言いたいわけではまったく無い。しかし、その萌芽を見いだせないわけでは、無い。なるほど、櫻坂46の今に対して自分が薄っすらと抱いている危うさは、おそらく、そういう部分にあるのかもしれない。
ここで『何歳の頃に戻りたいのか?』の歌詞に注目してみる。そこでは、前を向くことを極めてポジティブに捉えている人間が描かれている。
過去に 戻れやしないと知っている
夢を見るなら 先の未来がいい
櫻坂46『何歳の頃に戻りたいのか?』
しかしそれは、過去を否定的に捉え、さらには未来についても深くは考えず、とにかく、前を向いている今、この瞬間を強調する人間でもある。
行き先がどこかなんて 今はどうでもいい 微かなリグレット
櫻坂46『何歳の頃に戻りたいのか?』
近代化に際して既存の枠組みがひとつずつ取り払われ、それによって(平たい言い方にはなるが)社会が発展していくなかで、人間は自らの歴史という枠組み、参照軸をも解体してしまう。
さしあたって私たちの生は、どの生よりも大きく感じられる。(中略)自らをより生であると感じているために、過去に対するすべての尊敬の念、すべての関心を失ってしまったのだ。そのため私たちは、あらゆる古典主義を白紙に戻して、いかなる過去のうちにも模範や規範を認めようとはしない時代に、今ここに至って初めて出会っている。
オルテガ・イ・ガセット(訳:佐々木孝)『大衆の反逆』岩波文庫 P.99
あらゆる価値の判断基準が曖昧になり、自らを規定してくれるもの、拠りどころとなるものが無くなり、それによって翻弄される人間たちによって作られる社会。大衆社会。そして、そこに忍び寄る、甘美な囁きとしての全体主義、数字、新しさ。
してみると、『何歳の頃に戻りたいのか?』は、開き直りの楽曲としても捉えられるようになる。自らの立つ足場、自らの意味や価値、アイデンティティがぐらついているのは仕方がない。だから、前へと進んでいこう。前へ進むために、過去は否定しておこう。とはいえ、行き先が分からない。でも、そんなことはどうでもいい。とにかく前へと進めばいいんだ。過去を否定し、未来を気にせず、今、この瞬間の自分を強調するものの、そのようにして強調される今は、過去と未来から断絶されているために、その意味や価値を支える土台が極めて脆い。かといってそのことには触れず、とにかく前を向いて動いていく。動き続けているかぎり、動き続けていられるかぎり、自らの足元に目を向ける必要は無い。足場が崩れる前に次の足場に飛び移れるのなら、なにも問題無いではないか。 そして「数字」や「新しさ」といった指標はとても分かりやすいから、動くにあたっての差し当たっての指標として簡単に飛びつける。それらが足場を支える役割をも果たすだろう。しかし、当然ながら、それら自体は一面的で、曖昧で、移ろいゆくものであるために、持続性がまったく無い。飛び移った先にある足場は、これまでと同様、極めて脆い。ゆえに新しい「数字」、新しい「新しさ」を常に求め続けることを余儀なくされる。そして、それを糧にして、前へ進み、続けるしかない。脆い足場から脆い足場へ。その繰り返し。
こうして、今、この瞬間の自分を支える意味や価値がどんどん脆くなっていく。拠りどころが無くなっていく。それは今の櫻坂46が行う、表現の傾向に繋がる話でもある。確かに、意味への偏重はコンテンツ全体の硬直化を招く。かつてそれによって辛い経験をしているのだから、そこからの離反は望ましい。しかし、それを極度に押し進めようとするのであれば、話は変わってくるだろう。もちろん、今の櫻坂46のスタンスがそちらに振り切っていると言いたいわけでは決して無い。しかし、向いている方向自体は(どちらかと言えば)そちら側なのであり、そして、それは意識的に行われている。
「第二章」における櫻坂46は、ライブ終了直前のMCなどにおいて、コンテンツによって得た活力を糧にして日々の現実を生き抜くよう、ファンに促すことが非常に多い。コンテンツに埋没させるのではなく、現実に引き戻す。自らの立ち位置を、ある意味でファン各々の痛み止め的な立場として強調することが多い。
いや、自分はそれに否定的なわけでもまったく無い。むしろ、エンターテイメントというコンテンツの在り方としては健康的で、良い傾向だと思っている。過去を踏まえても、意味を軽くすることは望ましい。
しかし、意味を軽くしすぎることは、自らの立つ足場、アイデンティティを確保するにあたり、数字や目新しさといった、一面的かつ曖昧で移ろいゆくものへの依存を強めることに繋がらざるをえないのではないか。櫻坂46の今に対して自分が危惧しているのは、おそらくそういう部分にある。
そして、慎重に話を進めると、そもそも自分は、今の櫻坂46が立っている足場は、様々な意味や価値によって十二分に堅固なものとして構築されていると感じている。ゆえに、この足場が今後、脆くなっていく可能性に対して、危うさを感じているのだと思う。
メンバーとスタッフさんを信じてやってきて、でも一番は本当にBuddiesの皆さんの応援と支えがあったからこそ、この今がある、ということを本当に伝えたくて。
松田里奈「3rd YEAR ANNIVERSARY LIVE at ZOZO MARINE STADIUM」2023/11/26
キャプテン、松田里奈はこのような話を頻繁に強調する。確かに今、現在の多くのファンは、櫻坂46というコンテンツに対して、各々がそれぞれ、固有の強固な意味や価値を見いだしているように見える。多角的に意味や価値が捉えられ、それらが「櫻坂46らしさ」というひとつの言葉の元に集結している。この分厚い「櫻坂46らしさ」は、コンテンツが立つ足場を堅固にする芯の部分になっている。
この足場は表現を行う側による働きかけのみによって作られるのでは無い。表現を行う側とそれを受け取る側という、双方向からの力によって作られる。だからこそグループが、メンバーが、表現において意味や価値の提示を軽くしたとしても、ファンの受け取り方次第で、この足場はしっかりとしたものになる。
実際、今の櫻坂46が立つ足場は非常に安定している。
ここで補足したいのは、コンテンツの立つ足場が作られるにあたって、表現を行う側と受け取る側の間にある力関係は、前者による積極的な働きかけによって途端に差が生じる傾向にある、ということだ。それは受け取る側の無力化に、そして思考停止や全肯定の道へと容易に繋がってしまう。これは否定のしようがない。かつてあった、コンテンツ全体の硬直化の背景には、このような前提が、多かれ少なかれ、含まれている。
だからこそ、櫻坂46は改名以降、意味や価値の提示を控えるようになり、受け取る側であるファンにそれを委ねる、促す方針を取るようになったのではないか。そしてこの方針からは、グループの、メンバーの、ファンを全面的に信頼する姿勢をも読み取ることができる。
しかし、櫻坂46の「第一章」においてたびたび前景化した軋轢の数々は、その信頼に曇りを生じさせた。ゆえに、表現を受け取る側=ファンに意味や価値を見いだす下地を提供するという程度に、意味や価値の提示を意識的に行った。そのうえで、ファンにそれを委ねる、促すという方針を『Start over!』。やり直した。
櫻坂46の今の多くのファンの内には、この下地がしっかりと根付いているように思う。この下地をもとにして、各々が、適切な距離感で、温度感で、それぞれ固有の強固な意味や価値を積極的に見いだしている。そして櫻坂46の、この、今、現在の状況を、心の底から大切にしようとしている。守ろうとしている。その姿勢がコミュニティの中で共有されている。それはイベントに足を運び、会場の空気に触れれば即座に分かることだ。
この状況は決してアタリマエではない、むしろ奇跡のような状況だ、という認識。過去を振り返れば、それはすぐに分かる。過去の記憶がまだ根強いから、もしくは意味や価値を見いだす下地を与えられる過程でそれを学んでいるから、実際には振り返らずとも分かってしまう。この状況はアタリマエではない。だからそれを大切にしたい。守りたい。
ファンコミュニティの全体で「数字」を回してコンテンツの勢力を広げることに尽力し、それが健康的な盛り上がり方を(現状)見せているのも、おそらくはこのような前提があるからこそのように思う。根底部分でコンテンツに対する姿勢を共有した各々が、適切な距離感で、温度感で、それぞれ固有の強固な意味や価値を積極的に見いだし、それによって多角的に捉えられる「櫻坂46らしさ」という素晴らしさ、この誇らしいグループを、多くの人間に知って欲しい!
とはいえ、このあたりで一旦、慎重になったほうが望ましいようにも思う。「数字」という指標は分かりやすく、効果も極めて大きいために、それは危険でもあるからだ。現代において万人に共有できる意味や価値の指標がもはや、金銭を稼げるか否か、再生回数が多いか少ないか、くらいしか見いだすことが現実的に困難なことからも明らかなように、「数字」という極めて分かりやすい指標の前景化は、その他の指標を容易に包み隠し、さらには、すでに手中に収めている適切な距離感や温度感をも狂わせてしまう。であるならば、この「数字」というものは慎重に取り扱われなければならないのではないか。各々が適切な距離感や温度感を認識したうえで、それぞれ固有の強固な意味や価値を積極的に見いだし、しっかりと足場を固め、それを「数字」という分かりやすい指標でブーストすることで勢力図を拡大している現状について、自分は良さを感じる。しかし、それらが今後、崩れていく可能性が少なくないとしたら?
各々が適切な距離感や温度感を認識したうえで、それぞれ固有の強固な意味や価値を積極的に見いだしたり、コンテンツ全体を大切にしようとしたりする姿勢は非常に重要であると思う。しかし「数字」という指標や、それによって増えた多数の新しいファンの存在は、この状況に、大きく揺さぶりをかける。
まずは前者。
繰り返しになるが「数字」にはすべてを包み込んでしまう魔力がある。そのくせしてそれは、一面的かつ曖昧で、そして移ろいゆく、という厄介な性質を併せ持つ。ゆえに、現在、適切な距離感や温度感を認識した各々によって見いだされているそれぞれ固有の強固な意味や価値が、徐々に「数字」へと置き換わっていく未来が、もしくは、「数字」の魔力によって適切な距離感や温度感が狂ってしまい、意味付けや価値付けに伴う暴力性が前面に露呈してしまう未来が、容易に想像できてしまう。現実の歴史は無慈悲にそれを、裏打ちする。
もしかしたら、私たちはすでに、その未来に足を踏み入れているのかもしれない。新しいMVが投稿されるに際して、即、再生回数を伸ばすことについてのロビー活動が声高に行われ、それが大量に拡散され、実行され、結果として「数字」の話題がタイムラインの主流になる、という、今やお決まりの潮流について、自分はその重要性を認識すると同時に、ある種の寂しさ、虚しさ、そして恐れを感じてしまう。
続いて後者。
もちろん、新規のファンの存在そのものを悪いと言いたいのでは決して無い、ということをあらかじめ強調したうえで話を進めていくが、新しく増えた多数のファンは、自らの内にコンテンツとの時間の積み重ねが少なく、コンテンツ自体が持つ歴史、それによって醸成された・されている空気感、文化のようなものについても、ほぼ知らない状態にある。したがって、彼ら、彼女らは、それぞれ固有の強固な意味や価値を積極的に見いだす姿勢を取るために必要な下地、適切な距離感や温度感を、当然ながら所持していない。この状況がアタリマエではないという認識も無いために、それを意識的に大切にしようとする感覚も、持ちようがない。
だから、今、このタイミングにおいて極めて重要なのは、あらためて、今の足場をしっかりと固めることのように思える。櫻坂46は今、極めて調子が良い。過去を捉え、進むべき未来を考え、その間にある今を固める必要など、一見、まったく不要だと思えてしまう。調子が良いんだから、何も気にせず、前を向いて、動き続ければ良いじゃないか。私たちなら大丈夫!!
しかしそれは、下地のあるファンが多数派であるという前提に基づいた、極めて危うい発想ではないか。改名から菅井友香卒業までの「第一章」と、その流れの先にある今、現在の大きな違いは、コンテンツ全体が大きく広がり、新しいファンが増え、そしてその内側で「数字」の持つ圧倒的な力が共有された、という点にある。
であるならば、グループが『何歳の頃に戻りたいのか?』を高らかに歌い上げ、それをファンが素朴に捉え、称揚し、全体として充実感に満ち溢れている、勢いづいている今、というこの状況、しょうもないファンのしょうもない質問に対する、これまたしょうもない演者本人の一言とそれを検閲で弾かなかった運営のしょうもなさによって、『静寂の暴力』の賞味期限が一瞬にして切れ、単なるマスゲームへと陳腐化してしまった今、というこの状況は、むしろ、これまでの中で一番、危ういのかもしれない。
『何歳の頃に戻りたいのか?』は、そのライブパフォーマンスにおいて山﨑天が一人きりでポーズを決めるという終わり方が設定されている。他のメンバーは全員、左右に捌ける。どうして一人きりなのだろう、という疑問が浮かぶ。激しいダンスを終え、呼吸の荒い音が聞こえる。凛として立つ、というよりは、なんとか静止している、という感じがする。自分はそれを見るたびに、うっすらと不安を感じてしまう。
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最後に、グループのこれからについても少しだけ考えてみたい。先日、9thシングルの発売が発表され、その表題曲のタイトルは『自業自得』であった。
産業革命と市民革命。社会の枠組みが瓦解していく中で、個人主義の社会ができあがる。しかし、そこで想定された自由で主体的な個人、剥き出しの個人は強い不安にさいなまれ、たちまち、その在り方は大衆へと変わっていく。農村から都市へ。大衆社会の成立。イデオロギーの乱立。忍び寄る全体主義。数多の戦争。そして、世界全体を包み込むことになる資本主義。それを加速させる新自由主義的な経済政策。人間の原子化はさらに加速していく。資本主義は確かに大きな発展をもたらすが、その代償が極めて甚大であることは言うまでも無い。しかし、大きな発展の過程にあるとき、自らが立つ足場の状態を気にする必要は無い。前へ進めばいいのだから。そして、実際に、前へ進めているのだから。
では、前に進めなくなったら?
そのときに気づく。自らの立つ足場が極めて脆くなっていることに。問題を社会全体で解決できるような余裕はもはや無い。あらゆる問題は個人の問題へと巧みにすり替えられる。声高に「自己責任論」が語られる。すべては「自業自得」であると。
そういう今に、私たちは生きている。自業自得だと社会から非難される個人。自業自得だと自らを非難する以外の選択肢が無いことを自明視してしまう個人。
糸口。諦念。離反。
アイデンティティに関する問題は、やはり続いていきそうだ。そしてそれは櫻坂46の未来を映す、かもしれないし、そうではないかもしれない。おそらく、来たる東京ドーム公演が『自業自得』の初披露の舞台になるだろう。半年ほど抱えていた何かをなんとか掴むことができた今なら、それを、落ち着いた姿勢で捉えることができる、かもしれない。