閉鎖的閉鎖空間

考察とか、しないから。

櫻坂46「5th YEAR ANNIVERSARY LIVE」について。

世界は平べったいつくりをしていないというのに、気付けば、それを前提とせざるをえない思考様式が脳裏にこびりついて離れなくなっている。規範、道徳、倫理、社会、世界。自分と世界、自分と他人、そもそも自分とは。

そんな視座に立つことなんて実のところ決してできやしないにもかかわらず、それでも、自らを客観的世界に数多存在する人間のひとりとして捉えるということ(客観的世界?)。そして、他人を他人として即ち自らの類型として認めるということ=世界を平べったいつくりとして捉えるということ。それは「自らに嘘をつく」ということ、とも言える。だから、子どもは嘘を覚えて、大人になる。

 

大人「おともだちが遊んでいるおもちゃを取ってはいけません」

子ども「なんで?」

大人「おともだちが悲しんでるじゃないの」

子ども「おともだち?それに、だから?」

大人「なに言ってるの?じゃあ、あなたが同じことをされたら嫌でしょ?」

子ども「確かに自分が遊んでいるおもちゃを取られたら嫌だ。だけど、だからと言って、自分がそれをしてはいけない理由にはならない!」

大人「変なことを言うのはやめて。あなたがそういうことをしなければ、そしてみんながそういうことをしなければ、それでみんなが楽しく遊べるでしょう?」

子ども「え、なに言ってるのかぜんぜん分からないよ。自分は今、そのおもちゃで遊んで、楽しくなりたいんだ!」

 

大抵の場合、このあたりで暴力が執行される。

世界は平べったいつくりをしていないから、自分はどこまでもルールの外側に足を踏み出すことができる……けれど、自らの生は実質的にそれが許されない環境から始まるから、結果として、基本的にすでに成立しているルールには従わねばならない。たくさんのルール、たくさんの嘘を飲み込んで、その積み重ねで子どもは大人になっていく。平べったいつくりをした世界と、その登場人物としての自分、自らの類型としての他人、という世界観を受け入れていく。

だからこの嘘は多義的に機能する。一方でそれは(当然ながら)自らを抑圧する装置として働き、他方でそれは(皮肉なことに)この世界を実り豊かなものとして彩る。この嘘が無ければそもそも世界はこの僕そのもので、そして僕は、この世界で独りぼっちだ。


いろいろなところで何度も言っているように・書いているように、欅坂46とその作品群が、子どもから大人への移行期間の物語を示していたとすれば、櫻坂46は明らかに大人としての物語を紡ぎ続けている。子どもが大人になっていくこと=嘘を飲み込んでいくことに伴う葛藤とそれに対する抵抗。このプロセス自体がパッケージ化され、捻じれたかたちで受容され、それを演じることを何度も何度も繰り返し要求されるという悲劇。人一倍正直で、素直で、真摯だった彼女は角を曲がる。そして、残された人間たちの中心に抜擢されたひとりの少女は、今後のグループの方向性を定めるよう、選択を迫られる。

右目か左目か。

破壊か再生か。

それはつまり、嘘を所与のものとして受け入れて、平べったい世界のなかで大人として新たに歩を進めていく道を選ぶのか、それとも、嘘を嘘として捉えたままで、再びそれとの向き合い方を模索していく道を選ぶのか、という選択だと言えよう。

そして彼女は後者を選んだ。嘘を嘘だと、僕は嫌だと糾弾しても、それはこの平べったい世界において虚しい、ヘンな響きかたにならざるをえない。でも、それでも、嘘を所与のものとしては受け入れない。飲み込まない。むしろ、だからこそ嘘を嘘として引き受ける。これは端的に言って諦念で、そういう諦念を抱えながら、櫻坂46はこの平べったい世界のなかで歩を進めていくことになる。

誰もいない世界へ行きたい そんなこと思っていた
あの頃の僕って病んでいたのかな
(中略)
これからの人生 期待なんかしてない

櫻坂46『最終の地下鉄に乗って』

昨年、2025年に行われたライブツアー「5th TOUR 2025 “Addiction”」は、ツアー全体の構成からしてそれ、そのものだった。陽気に「私は私だ Yeah Yeah Yeah」と歌い上げる『UDAGAWA GENERATION』の裏には『やるしかないじゃん』と『条件反射で泣けてくる』があって、あの悲壮感に満ちたダンストラックがあって、そして、そのどれもがツアー後半のドーム公演(という、外向きの矢印が強い公演)においてセットリストから外されていた。嘘を嘘として引き受けること。そのうえで道化を演じ続けること。先にも記したように、それは多義的に機能する。だから、櫻坂46の華々しい現在地には厚みを感じられる。

 

再生を選択してから二年半が経ち、そこでやり直しの宣言が行われてからさらに三年。彼女たちは国内最大規模の舞台に立つ。

一年目と二年目において、客足ははっきり分かるほどに減っていた。初代キャプテン菅井友香の卒業の舞台として選ばれた東京ドームでの公演では、不自然な余白が目立つかたちで配置されたアリーナ席と、スタンド席の空きを隠すために設置された大きな暗幕が目についた。それがグループの現状を表していた。本編が終わり、卒業セレモニー前のアンコール、会場を彩るペンライトが白から緑へと流れるように変わっていく。楽曲が始まる直前、一瞬、誰かの嗚咽ともとれるような声が会場に響く。その声を拾っていたマイクは即座に電源を落とされる。セレモニーの一曲目、森田ひかるはステージの上にいない。

そんな一、二年目を経て、三年目以降の奇跡の大躍進がある。ゆえに、三年目の周年記念ライブ、初めてのZOZOマリンスタジアムでのライブは、まさに祝祭だった。会場いっぱいに広がる白のペンライトは壮観としか言いようがない。ところが、四年目、自分ははっきり言って、このグループの制作(作品・ライブ)およびその受容のされ方に対する印象がどんどん悪くなっていく。

夏の期間に発売したので、なんていうんですか、フェス用の『Start over!』にしてしまっていて、ずっと自分が。それを最近後悔してたんですよ。あ、私たちが伝えたいこととファンの方の捉え方がちょっと違うのかな、っていうか……差を感じててずっと。私たちがどうこうして変わるのかはちょっと分からないですけど、まぁ……頑張りたいです。

櫻坂46『3rd YEAR ANNIVERSARY LIVE at ZOZO MARINE STADIUM Disc3 Behind the scenes of 3rd YEAR ANNIVERSARY LIVE』

「あ~、今でもあの時を超えるものは見ることができずにいますし、もう二度と見られないんだろうなって思っていて──」。
 そのくらい最初のパフォーマンスで最高の体験をしてしまったということですよね。
「う~ん……最高というか。出来とかではないんですよね。あの時に目にした光景が本当に美しかったので……私個人の問題というか」。

『B.L.T.2024年7月号』P.22

素敵な場所ですよ、センターは。自由だけど自由じゃないし。自由な瞬間はやっぱ一瞬で、すぐ裏返っちゃうっていうか。(中略)やっぱり『Start over!』はどうしてもどのイベントでもやってて、今のところ。ありがたいんですけど、たくさんやりたい気持ちもあるんですけど、今は一旦……休憩させてあげたいなっていう。

櫻坂46 藤吉夏鈴 | 自分にとってセンターとは? / CM出演した本人とドライブスルーでサムライマック / 2度目の東京ドーム |「とーやまリラックスTAXI」【後編】
https://www.youtube.com/watch?v=eUfj5HY7wU0&t=291s

たぶん、藤吉夏鈴が『Start over!』について各所で述べていた・記していたこういった内容の裏側にあるであろう心のなかの引っ掛かりは、同じ時期、自分が櫻坂46に対して思っていたことに似ているような気がする。『Start over!』を契機に大躍進を始める櫻坂46、たくさんの音楽フェスに呼ばれ、海外でのステージも経験し、ドーム規模の会場が満員になる。世間に「櫻坂46」が見つかる。それは平べったいつくりをした世界のなかで居場所が確保されるということで、それは自身の胸元にハッシュタグのついたネームプレートが貼り付けられるということで、それはつまり、逆説的なことに、櫻坂46が見つからなくなる、ということでもある。イントロに合わせてみんなでジャンプするライブ定番の盛り上がりソングとしての『Start over!』。あれ……?

PersonaとPerson。できあがった仮面がその人そのもので、その仮面に取り憑かれるところまでがひとくくり。平べったい世界のなかで、外側からも内側からも、櫻坂46が固まっていく。ゆえにだろうか(先にも記した)2025年に行われたライブツアー「5th TOUR 2025 “Addiction”」は、改めて、そうではない、それだけではない、ということを仄めかす構成が採られていた。そして、その延長線上に14thシングル「The growing up train」と、国立競技場での五周年記念ライブ「5th YEAR ANNIVERSARY LIVE」がある。

どんなトンネル抜けても
また近づく 孤独の時間だ

櫻坂46『The growing up train』

14thシングル表題曲『The growing up train』は、単に明るいだけの、肯定的なニュアンス一辺倒の楽曲ではない。長い長いトンネルを暗中模索しながら突っ走り、その先で全身に光を浴びるという幸福。しかしそれは「孤独の時間」の始まりとも言えてしまう。見つかると、見つからなくなるものがある。ところが、この見つからなくなるもの、というのはそもそもにおいてこの平べったい世界のなかに居場所がありようのないものでもあるから、それをそのままのかたちで表明することはできず、必ず変形してしまう。ゆえに、藤吉夏鈴の肉声は歪められたかたちで響きわたる。

この平べったい世界をきれいなかたちで成立させるために必要な嘘を所与のものとせず、かといって否定するのでもなく、向き合い続けながら歩を進めていく選択をした先で立つことになった、国立競技場という大きな舞台。その中心にあったのは「祈り」だったと思う。一本の櫻の木という自らを超越するものへの「祈り」と、ともに歩む類型としてのメンバーへの「祈り」。きれいなかたちではこの平べったい世界が成立していない以上、そのなかではたくさんの矛盾がちらついて、時折それに躓いてしまう。だから祈る。それでいて、自らの立っている世界が独りぼっちではありませんように。そして、この平べったい世界における登場人物のひとりとしても、まっとうに振る舞えますように。

でも、それでも、いくら祈りを捧げても、嘘を完全に飲み込んでしまわない以上、躓きの石がすべて取り除かれるわけでは決してない。それがもっとも肝心な部分であり、無かったことにしてはいけないであろう部分であり、そして、あの『Start over!』における藤吉夏鈴のパフォーマンスは、まさにその現れだと言えるものだった。村井優に手を引かれるかたちでメインステージの端に連れていかれる藤吉。そこで交わされる抱擁。それを解いてセンターステージへと走っていき、会場の真ん中で苦悶の表情を浮かべながら独り踊る藤吉。村井は元の輪の中に戻っていく。以後、藤吉は他のメンバーと交わらない。最終的に同じ方向こそ向くものの、そこには断絶がある。立っている次元が違うのだ。いくら祈りを捧げても、きれいな平べったい世界は成立しない。それでも同じ方向を向いている、というのは、とても櫻坂46的ではないだろうか。(※さらに付言すれば、14thシングル「The growing up train」に収録されている全員曲『僕は向いてない』は、今回の公演においてセットリストに入っていない。これも、とても櫻坂46的だ。)

 

ところで今、「櫻坂46的」という言葉をあえて使ったけれど、たぶん、正確には「欅坂46を経ての櫻坂46的」というのがふさわしい。飲み込んだほうが楽になれる嘘を飲み込まず、かといって吐き出すわけでもなく、口に含ませたまま歩んでいくことを選び、それに伴う苦をそれゆえに引き受けてきた一、二期生と、舵取りの定まった後の船に乗り込んできた以降の期生が描くことのできる・から感じ取れるニュアンスは当然、異なるからだ。そして、加入したタイミングにおけるグループの状況がまるで違う以上、もちろん三期生と四期生でもそのニュアンスは大きく違ってくる。三期生は、平べったい世界のなかにグループの居場所が確保されていく過程のなかでニュアンスが醸成されていった期生であるから、なんというか、ここまでのような話題とはあまり縁が無かった印象を受ける。言ってしまえば、とても優等生的なのだ(もちろん、良くも、悪くも)。一方で四期生はどうか。もちろん、四期生もとても優等生的だ。でも、三期生と四期生では加入のタイミングにおけるグループの状況がまるで違うから、つまり、四期生は、三期生が加入したタイミングと重なる2023~2024年における大躍進を経た先で、改めて、仮面に取り憑かれることにグループが・メンバーが対峙せざるをえなくなり、随所でそれが様々なかたちで表れるような状況下において加入した期生だから(たしかに、それはとても優等生的ではあるけれど)そこから醸し出されるニュアンスには複雑な厚みが生じてくる。

『夏の近道』から始まる三期生と、『死んだふり』から始まる四期生。

誰かに死んだふりさせられて
何のために生きているのか?
いつからか死んだふりしていたのは
気づかれたくないから

櫻坂46『死んだふり』

仮面がすっかり顔に馴染んで、この平べったい世界に安住の地が見つかることは、実のところ、もっとも重要であったはずの根本的なことを見失ってしまうことでもあるのであって、それはつまり、死んだも同然なのではないか。『Alter ego』のMVにおいて象徴的に用いられる真っ白いジグソーパズルというモチーフ。ひとつのピースを自らの手に持っているとき、それは、このピースとして明確に認識することができるけれど、そのピースが自らの手を離れて、配置されるべき場所に配置されて、真っ白いひとつのジグソーパズルが完成するや否や、もともと手に持っていたピースを認識することはできなくなる。とはいえ、あのひとつのピースは、そもそもこの真っ白いジグソーパズルの一ピースとしてしか居場所が無いものだから、このプロセスを拒否しきることはできない(=拒否しようとしてもその表明は虚しく、ヘンな響きかたをするしかない)し、だからこそ、袋小路に陥った欅坂46を経ての櫻坂46は、それでも、諦念を抱えながらもそれを基本的には表に出さずに大人としての歩みを演じ続ける道を選んだのだった。選択されたこの道を加速していく過程において加入した三期生は、それに乗っかるしかない。『静寂の暴力』は(その内容に反して)早々に単なるマスゲームと化した。三期生という固有の境遇を活かした営みが育まれるような余裕はほぼ無いまま、流れるように月日は過ぎていって、今に至る。
※だから、国立競技場で行われたあの『静寂の暴力』は尊いのだ。)

引きこもる時間はないんだ
すぐ大人になってしまう
自分から鍵を開けろ!

櫻坂46『引きこもる時間はない』

しかし、先に記したような現状であるところの櫻坂46に加入してきた四期生であれば、たとえ同じ道だとしても、あらためて、それを違ったふうに歩むことができるのではないか。もっと右往左往しながら、行ったり来たりしながら、ときには立ち止まりながら、唾を吐き捨てながら、もしくは地面を這いつくばりながら歩むことだってできるのではないか。平べったい世界のなかで大人を演じ続ける先輩たちを横目にしながら、その隣で高い次元から低い次元に降りていくという営み。それは表面的にはあの頃に似ていることが行われるのかもしれないけれど、良くも悪くも歳を重ねた今の自分であれば、こっちの方がずっと複雑で、厚みがあると感じられるだろう。これももちろん、良くも悪くも。

14thシングル「The growing up train」に収録されていた四期生曲、浅井恋乃未(彼女はまさに優等生的なハッシュタグを身に付けた状態でグループに加入してきている!)がセンターを務める『光源』のMVは、まさにそういった期待をしてしまうような作りをしている。二期生、三期生ではもう、決してできない表現の領域がそこにはあって(※フレッシュさとか、初々しさとか、そういう話ではもちろん無い)、国立競技場におけるパフォーマンスからもそれを存分に味わうことができた。「欅坂46を経ての櫻坂46的」なものが、また、新しいかたちで続いていくのだ。

六年目の櫻坂46からも目が離せない(と、心の底から思えていることが、自分は今、とても嬉しい)。

 

~~

 

追記。

 

といったようなことを記してから二週間後、武元唯衣が卒業していき、続いて、増本綺良の卒業が発表された。『死んだふり』『Alter ego』『光源』(+三期生から継承された『マモリビト』)から感じ取れる四期生の方向性が、いつの日かグループ全体としての指針そのものになると仮定するならば、それは(平べったい世界のなかで大人を演じながら仮面に取り憑かれることに対峙せざるをえなくなっている、という)この現状を打破する確かな糸口になりそうではあるのだが、とはいえその仮定の未来においてグループに残っている二期生は、その必要がそもそもあまり無いであろう(=無くてもなんとかできてしまうであろう)数人だ、という予想が容易にできてしまうのは無念としか言いようがない。このタイミングでの増本綺良の卒業発表は、その未来の前兆としか、今のところは思えない。

 

櫻坂46「5th TOUR 2025 “Addiction”」について。

今年も一年中、櫻の季節をお楽しみください

森田ひかる「そこ曲がったら、櫻坂?」新春用の特別CM 2025/1/6

2025年4月26日の愛知公演を皮切りに、福岡、広島の計三か所を回るアリーナ規模の公演を経て、三日間にわたる東京ドーム公演、そして、その一か月後、8月23~24日に開催された千秋楽、京セラドーム公演、二日間。新年の挨拶を体現するかのように、2025年のライブツアー「5th TOUR 2025 “Addiction”」は例年に比べて極めて長期間での開催になった。

アリーナ規模の会場で最後に行われた広島公演と東京ドーム公演のあいだは丸々二か月。その二か月の中に四期生による「First Showcase」の開催と12thシングル『Make or Break』の発売が差し込まれており、ツアー後半のドーム公演では、それらの要素が随所に追加されることになった。いや、それどころの話ではない。冒頭の挨拶以後、MC無しのノンストップで本編を駆け抜けていくアリーナ公演の基本構造はそのままに、これでもかと言わんばかりに全体のボリュームアップが図られ、さらには本物のサーカス団による圧巻のパフォーマンスを交えた特殊演出で『UDAGAWA GENERATION』が披露されるなど、最早カオスとしか言いようがない、あまりに濃密な三時間へと昇華されたドーム公演。

そんな「5th TOUR 2025 “Addiction”」をどのような道筋で捉えよう。もちろん、ドーム公演の内容をライブツアーの完成形として捉えて、その視座からの振り返りを行うのは王道的だと思える。しかし、自分としては逆に、前半部分、アリーナ公演の方を軸に据えてみたい。それを踏まえたうえでのドーム公演、という考え方をしてみたい。アリーナ公演からドーム公演に移行するに際して、なにが変わったのか。全体のボリュームアップが図られた一方で、省かれた要素がある。明らかにニュアンスが変化したように見える部分がある。ここではそれを、ピックアップしてみたい。なぜか。

2024年あたりから自分が櫻坂46について思っていたこと。それに対する、ある種の答え合わせのようなナニカを、自分は、ライブツアーのアリーナ公演を観ながら、そして、それを踏まえたうえでのドーム公演を観ながら(勝手ながらに)感じることになったからだ。だから、このツアーの振り返りは、極めてしょうもない、自分語りから始めざるをえなくなる。

 

~~

まず、端的に言って自分は、昨年11月に開催された「4th YEAR ANNIVERSARY LIVE」がとても、嫌だった。明らかに分かってしまう選抜メンバー偏重の全体構成が嫌だった。本編を締めくくる最終パートの七曲のうち、あろうことか、一曲も参加できないメンバーがいた。衣装の用意だけはされていた。しかし、彼女がそれを着て舞台に立つタイミングは、一切、無かった。七曲のうち一曲しか参加できないメンバーも少なくなかった。アニバーサリーを祝う花火が上がったとき、舞台上にいたのは選抜メンバーだけだった。

どうしてそういうことが起きるのか。

櫻坂は誰も置いていかない、的な文言とは、結局のところは、全員を、十全に適応できるか否かには関わらず、唯一のゲームの舞台に無理やりにでも上がらせて、その内にある厳格なルールのもとで競わせるということなのか。だとしたら、自分はそれを、優しいとは全く、思えない。もちろん、ゲームのルール自体が全く気に入らない、というわけではない。良さはある。なので、そういうゲームのなかで描かれる物語が世間的に好まれる傾向にある、というのは、個人的には気に入らないけれど、それ自体を完全に否定しようとは思わない。でも、だからこそ、せめて、記念日のようなタイミングくらい、それはある意味でタテマエのように扱われていて欲しいと切に思っている。誰も置いていかない、ってそういうことではないのか?

自分はルールに馴染めないことが多かったし、気づけば、そもそも既存のルールから距離を置きたがる傾向が強い人間として形成されてしまったようだから、それによって自らが抱かざるをえなくなる、ある種の疎外感を、他者から一般的な意味で「認められる」ことによってはあまり、解消できなくなってしまったらしい。なぜなら、一般的な意味における「認める」という行為の中には、それが成された暁には、認められる側の存在が認める側のルールの内側に取り込まれる、という事態が既定路線的に組み込まれているから。共感とは、ある意味で単なる押し付けにすぎない。性的マイノリティを表すアルファベットの羅列がどんどんと長くなっていくことに対するキモチワルサも、そういう部分にある。そしてこういうことを言う人間に対して、社会は一般的に、ワガママというラベルを貼り付ける。ワガママなのはどっちだ。まぁ、自分の方か。いやぁ、でも……

だから、あのときの欅坂46は自分にとって、明らかに、救済としての機能を有していた。あのとき、自分は、一般的な意味にではなく、端的に認められた感じがした。謙虚で、優しい、絆とは、そういうことだ。(詳細は別の場所で何度もしているから、ここではこれくらいにしておく。)

自分がグループの根底部分に見いだしたそういう「良さ」は、改名して、櫻坂46になってからも変わらない……とは、残念ながら思えなくなってきてしまったのは、やはり、選抜制度が明確に、前面に打ち出されるようになってから。

また、自分が『何歳の頃に戻りたいのか?』を苦手とする理由も、こういう話に繋がっている。あの楽曲において描かれている、過去を否定しながら前に走り続ける今、この瞬間を称揚する人物と、資本主義というひとつのゲームが全てを支配したかに見えるこの現代社会において、そのルールに十全に従い、適応し、そして埋没していく人間たちのすがたは重なっていて、ゆえに『何歳の頃に戻りたいのか?』を素直に、肯定的に、高らかに披露している選抜された彼女たちを前にすると、どうしても気が重くなってしまう。それを体現するグループにおいて、選抜制度が前面に/全面に打ち出されるようになるのは必然的で、「4th YEAR ANNIVERSARY LIVE」の構成も、自分にとってはその、表れのように見えた。

年末、選抜メンバーしかいない紅白歌合戦を観る気にはなれなかった。

そんな調子だったので「10th Single BACKS LIVE!!」と「11th Single BACKS LIVE!!」こそ十分に楽しんだものの、「Buddies感謝祭 2025」には行きたい気持ちに全くならず、ゆえにチケットも申し込まず、結果、小池美波の卒業セレモニーは配信で鑑賞することになった。でも、本当に、何も、思うことが無かった。いや、最後に『何歳の頃に戻りたいのか?』が披露されたとき、寂しさを感じた。最後の一期生の幕引きをこういうかたちで味わうことになるとは思わなかったから、それも寂しかった。それぐらいの気分。

2025年2月にリリースされた11thシングル表題曲『UDAGAWA GENERATION』も、本当に嫌だった。

Z世代なんて言葉は
誰かが作ったマーケティング
私は私だ Yeah Yeah Yeah

櫻坂46『UDAGAWA GENERATION』

ゲームのルールに十全に適応できている側の人間の口から、陽気にそういう言葉が発せられることに対する嫌悪感。MVは途中で観るのを辞めた。

だから「5th TOUR 2025 “Addiction”」は、完全に惰性でチケットを申し込んだ。最初の先行で当たったぶんの公演だけ行けばいいか。でも福岡と広島は移動費が高いから、流石に片日だけというのは勿体ないか。愛知は会場がクソだから、なんなら当たらない方が嬉しいかも。東京ドーム三日間とか、行かなくていいでしょ。京セラドームも、別に、千秋楽だけでいい。結果、最終的に、愛知二日目、福岡両日、広島両日、東京ドーム二日目、三日目、京セラドーム両日のチケットが手元にきた。惰性で申し込んだにしてはチケットの数が多すぎるが、まぁ、色々と、噛み合いが良かったり悪かったりしたのだ。Leminoスペシャルシートがご用意された京セラドーム公演の一日目を除いて、他のチケットにはどれも後方の座席が記されていた。その時点での心の距離が、ステージに立つメンバーとの距離として如実に表れていた。

公演を初めて観る、愛知二日目。最速先行分のチケットにもかかわらず、ステージはほぼ、何も見えなかった。やはりAichi Sky Expoはライブ会場ではない。しかし、そこで驚くべきことが起きる。遠くに小さく視界に入る程度のモニターを通してしか確認できないその公演を鑑賞していくにつれて、自らの内にあった上記のようなわだかまりが、なんと、徐々に解けていくではないか。そしてドーム公演を経て、それが思い込みでは無かったという確信にまで至る。一体なにが、あったのか。

 

~~

Knock…knock.

Who's there?

Arthur Fleck.

Arthur Fleck who?

監督:トッド・フィリップス「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」

本ライブツアーのアリーナ公演は、ピエロのすがたに扮した森田ひかるによるオープニングからスタートする。レコードに針を落とし、メインステージを包む紅い暗幕を一気に上げて、一曲目『UDAGAWA GENERATION』からライブ本編をノンストップで駆け抜けていく彼女たち。サーカスをモチーフにしたセット作りからも明らかなように、公演の雰囲気は基本的に一貫して調子が良く、陽気だった。ところが時折、おどけたピエロが身に纏う派手な衣装と白い厚化粧、すなわち分厚い仮面の向こう側がこちらにすがたを覗かせていたような、そんな気にさせられる箇所があった。

注目したい楽曲は『何歳の頃に戻りたいのか?』と『条件反射で泣けてくる』。そのどちらにも山﨑天が、絡んでいる。

 

本当に あの頃 そんな楽しかったか?
きっと 特別 楽しくはなかっただろう

櫻坂46『何歳の頃に戻りたいのか?』

まずは『何歳の頃に戻りたいのか?』から。

前述のとおり、この楽曲では、過去を否定しながら前に走り続ける今、この瞬間を称揚する人物のすがたが描かれている。そしてそれは、資本主義というゲームのルールに十全に従いながらそれに適応し、埋没していく人間たちのすがたと重なっている。ゆえに、この楽曲を極めて肯定的に表現することは、この現代社会の全てを包み込んでいるかに見える資本主義のゲームを乗りこなすさまを示す、と同時に、このゲームがその全てのプレイヤーに対して行う要求、すなわち、何人も代替可能なひとつの歯車として十全に機能するように自らをチューニングし、そのうえで常に動き続けることを是とする価値観に従え、という要求を呑みこみ、かつその、ある種の悲劇には蓋をして考えないようにする、というさまを暗黙裡に示さざるをえなくなる。だから、自分は基本的に『何歳の頃に戻りたいのか?』という楽曲が苦手だ。

ところが、アリーナ公演で披露された『何歳の頃に戻りたいのか?』のニュアンスは、今までとは明らかに異なるものだった。特筆すべきは曲中、毎公演ごとに異なる過去衣装をひとり身に纏って、歌い、踊る山﨑天(!?)の風貌と、その口から発せられる言葉の数々で、そこには、普段の順風満帆そうに見える彼女とは全く違う雰囲気に包まれた彼女がいた。

後になって振り返ると あの頃ってあれはあれで楽しかったなって
思えて来るもんなんだな

櫻坂46『条件反射で泣けてくる』

続いて『条件反射で泣けてくる』について。

先ほども記したように、本公演はノンストップでそのライブ本編を駆け抜けていく。MCは冒頭の挨拶のみで、楽曲と楽曲のあいだの随所にはダンストラックが挟まれていた。陽気さと勢いの良さはまさに、グループの現在地を表しているかのように見えた。ところがその中に一本の楔が打ち込まれていたように思う。『条件反射で泣けてくる』の直前に差し込まれた、山﨑天が単独で行うダンストラック。公演全体の内において異質としか言いようがない、悲壮感に満ちたそれが、続けて披露される『条件反射で泣けてくる』をきわめて強く、際立たせていた。

『条件反射で泣けてくる』、それは過去への郷愁を描く楽曲であり、リリースされた2022年当時においては、(欅坂46という)過去に蓋をしてでも前進しなければならなかったあの時点におけるグループの裏面、そのものであった。しかし、それゆえに、本楽曲は長らく、あくまで淡々と表現されていなければならなかったように思う。繰り返しになるが、過去に蓋をしてでも前進しなければならない、そういう時期だったからだ。ところが、本公演における『条件反射で泣けてくる』は、先に記したダンストラックも相まって、悲壮感が存分に強調されていた。

2022年当時における「あれはあれで楽しかったなって思えて来る」過去が欅坂46としての活動の時期だったとすれば、2025年現在におけるそれは、『Start over!』というやり直しの宣言が行われる一歩手前、櫻坂46としての目まぐるしい大躍進が始まる少し前の、あの、暗中模索しながら一歩一歩、着々と歩みを進めていた時期になるだろう。きっと、特別、楽しくはなかっただろう?そんなことは断じて、無い。確かに物事はなかなか思うように進まなかったし、客足は目に見えて減っていたし、多くのファンも相変わらず、頓珍漢な振る舞いを続けていた。それでも、だからこそ、あの過去にはあの過去に特有の、今とは全く違う、今ではもう絶対に味わうことが不可能な、良くも悪くも特別な楽しさが、明らかに、あった。

条件反射じゃしょうがない
自分の気持ちに抗えない

櫻坂46『条件反射で泣けてくる』

落ちサビ後、山﨑天は花道をひとり、疾走する。メインステージでパフォーマンスする他のメンバーたちから離れて、客席のあるこちら側に向かって、走ってくる。自分が本公演を初めて観るに際して与えられた座席は、ステージがほとんど見えないアリーナ席の最後方部。もちろん、メンバーの識別などできようもない。物理的にも心境的にも距離が離れた状況下においてのライブ鑑賞。そのなかで突如、不意に視界に入ってきた山﨑天。物理的な距離の遠さは相変わらずだったが、それでも自分はあの瞬間、山﨑天という仮面のその奥にいる彼女が、もちろん、そんなわけがないのは分かっているけれど、それでも直に、見えたような気がしてならなかった。

そしてその感覚は、およそ七年前、欅坂46というグループの真ん中で、分厚い仮面を前にして葛藤するひとりの少女を初めて直に目にしたときに抱いたものと、本質的に、同様のものだったようにも思えてしまう。

なるほど。自分はまた救済されて、しまったらしい。あぁ、キモチワルイ。

 

~~

そんなアリーナ公演が終わってから二か月後に迎えた東京ドーム公演。

初めて観たときに自分は心底、驚いてしまった。あまりに解釈が一致していたからだ。全体の陽気さはさらに増し、『何歳の頃に戻りたいのか?』は普段どおり、いや、それ以上に高らかに歌い上げられ、そして『条件反射で泣けてくる』は、あのダンストラックごと、きれいさっぱり、セットリストから外されていた。本物のサーカス団がステージ全体を鮮やかに彩り、『UDAGAWA GENERATION』の後ろでは、聳え立つ空中大車輪が、二人の人間という歯車によって回り続けていた。

各地方で行われたアリーナ公演と比べれば、ドーム公演は規模的に必然的に、外向きの矢印が強くなる。そういう意味では、前者を、内向きの矢印が強い公演だと捉えることができるだろう。そして、そんなアリーナ公演にかぎって、『何歳の頃に戻りたいのか?』と『条件反射で泣けてくる』が、あのようなニュアンスで秘密裡に披露されている。これらは映像としても残らないだろう。

おどけたピエロは派手な衣装と白い厚化粧の裏側で、血の涙を流している。ピエロはピエロを演じ、続けなければならない。同様に、アイドルもアイドルを演じ、続けなければならない。その圧力は表舞台に立てば立つほどに、人気になればなるほどに、重くなる。演じ続けなければならないことに伴う葛藤というものがあり、そういうものを目の当たりにすることで、一般的な意味における「認める」という行為を素直に受け止められないメンドクサイ自分は、何度も救われている。だからこそ、自分は彼女たちを演じる彼女たちのことをやはり、端的に認めねばならない、というより、認めたい。もちろん、そんなことは絶対にできないからこそ、せめてそういう心持ちで居続けたい。改めてそういうことを考えさせられる、気の引き締まる「5th TOUR 2025 “Addiction”」だったように思う。

それにしても、そういうライブツアーのタイトルがAddiction、つまり依存症、というのは、ある意味で、あまりに話ができすぎてはいないだろうか。いや、そういう話はしないでおこう。なにせ、私たちは全員等しく、すでに、資本主義というゲームにAddictionで、おそらく、否応にも、その前提のもとで生きていかねば、ならないのだから。

 

~~

追記。

揺れるGlittering lights 永遠に
変わらないものっていいね

櫻坂46『コンビナート』

そして、だからこそ、自分は、増本綺良を中心とした二期生の口から紡がれるこのフレーズから、きわめて強い意味を読み取ってしまう。し、そのうえで観る、松田里奈がセンターを務める二期生曲『紋白蝶が確か飛んでた』は全体を通して、とても切ない。目に焼き付けておきたいはずなのに、結局いくら公演を重ねても、なかなかそれを直視することができず、ピントはずっと、ぼやけていた。

白一色ではない、色とりどりのペンライトに包まれた会場が、とても綺麗だった。

 

櫻坂46「4th ARENA TOUR 2024 新・櫻前線 -Go on back?- IN 東京ドーム」について。

2024年6月18日にnoteで公開した記事をサルベージして再編集。

2024年3月2日から同年3月27日にかけて、福岡、大阪、愛知、神奈川の四会場で全八公演行われた「4th ARENA TOUR 2024 新・櫻前線 -Go on back?-」と、その追加公演として、6月15~16日に東京ドームにて行われた「4th ARENA TOUR 2024 新・櫻前線 -Go on back?- IN 東京ドーム」。計十公演を経て抱いた印象を、その千秋楽直後に振り返っている。

 

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Buddiesのみんな、準備は良い?

松田里奈「そこ曲がったら、櫻坂?」新春用の特別CM 2023/1/9

逆向きに時を刻んでいく時計と、浮かび上がる「Go on back?」の文字。東京ドームの中央にひとり登場する山﨑天が右腕を高く掲げる。手の先はお馴染みの櫻ポーズから、グループの始原、そして彼女自身の始まりを想起させるポーズへと変化する。コインを天高く放り投げ、一曲目『何歳の頃に戻りたいのか?』から、ライブ本編の幕が上がる。

2024年6月15~16日に開催された「4th ARENA TOUR 2024 新・櫻前線 -Go on back?- IN 東京ドーム」は、同年3月に全国四か所で開催されたライブツアー「4th ARENA TOUR 2024 新・櫻前線 -Go on back?-」の追加公演という位置づけのライブであり、披露された楽曲の多くは同様のものだった。しかし一方で、追加された楽曲、削除された楽曲、セットリストの順番や演出の随所からは、新たにさまざまな意味を見いだすことができ、そういう意味では、全く別物の公演として、極めて緻密に作り込まれていたように感じることができた。

本編を『泣かせて Hold me tight!』→『何歳の頃に戻りたいのか?』で締める地方公演に対して、『何歳の頃に戻りたいのか?』→『泣かせて Hold me tight!』で幕を上げる東京ドーム公演。時間の逆行。

直後、聞き覚えのあるSEと見覚えのある「白」の演出が会場を包み込み、『恋が絶滅する日』→『摩擦係数』へと続いていく。一年半前、同じ場所で観た「2nd TOUR 2022“As you know?”」を、菅井友香の卒業の場として改名後に初めて東京ドームに立った、あの公演を、思い出してしまう。

海風と汽笛の音に包まれた空気の中で披露される『Nobody's fault』。ブラウン管テレビに映るコミカルで奇抜なキャラクターたちとカラフルなペイントでサイケな世界を魅せる『Cool』。信号機の上からこちらをアイロニカルに見下ろす森田ひかるが強烈なインパクトを刻む『Dead end』。これらはどれもライブにおいては新鮮味のある演出だったが、私たちはその全てを、すでに見たことがある。

過去と未来 繋ぐ今をどう生きるか?

櫻坂46『Dead end』

暗い夜空の先 確かに今も 満開の桜が見える

櫻坂46『桜月』

『Dead end』から『桜月』へ。

『Start over!』というやり直しの宣言から、新領域、9thシングル表題曲『自業自得』へ。

そして「夢を見るなら 先の未来がいい」と高らかに歌い上げ、投げたコインの表裏を確認することなく山﨑天が舞台から捌けていった地方公演から、グループの今(=現在地)を、この移ろいゆく曖昧な世界の中に打ち込んできた数々の作品という「楔」をもとに明確にし、そのうえで、新たな一歩を踏み出そうとする東京ドーム公演への移行。

「1st TOUR 2021」。その本編を締める楽曲、『流れ弾』。あのとき、センターに立っていた田村保乃が持つ拳銃から上空に放たれた弾丸は、時空を超えての櫻坂46を貫いていく。無としての白が乱暴に、そして鮮やかに染められていく。

『流れ弾』のアートワークディレクションを担当したOSRINは、そのコンセプトを説明するにあたって「彼女たちが革命そのものである」という言葉を残している。革命といえば、かつてエドマンド・バークは、フランス革命を、歴史の中で蓄積されてきた経験に基づく既存の体制すべてを破壊して更地にし、そのもとに理想的な建物をゼロから新たに創造しようとする無謀な行為だとして猛烈に批判した。

では、櫻坂46という「革命」は、そのような類のものなのか?

いや、違うだろう。

森田ひかるは、改名したグループを再始動させる楽曲『Nobody's fault』を表現するにあたって、修復や再生のシンボルであるホルスの左目を選択したからだ。破壊の象徴であるラーの右目は選ばれなかった。そして、ホルスの左目が月の象徴であることと、今回の東京ドーム公演において紅い月を背景に披露された『流れ弾』は繋がっているように見える。破壊ではなく、修復と再生。そういう革命。そういう公演。

自分は先日、グループの歴史の全体を改めて捉え直し、その上に刻まれた『Start over!』『承認欲求』『何歳の頃に戻りたいのか?』という三部作をもとにして、極めて良い状況に見える櫻坂46のに見え隠れする、危うさについて考えた。

コンテンツ全体を取り巻く、今、現在のこの環境は、グループ、メンバー、ファンの内に蓄積された過去の経験や記憶のもとに生じた、極めて奇跡的なものなのであり、決してアタリマエのものではないということ。 各々が、特にファン各々が、意識的にこれを維持しよう、大切にしようとする姿勢を取り続けなければ、この状況はおそらく、瞬く間に瓦解してしまうと思われるということ。しかし、時間の経過はこの認識を徐々に、確実に、薄くしてしまうという必然。それだけではない。動き続ける今を強調し、過去と未来を(ある意味で)軽視する『何歳の頃に戻りたいのか?』的な姿勢を手放しに称揚することや、ファンコミュニティの内で共有され、そして前景化しつつある「数字」の力を用いて膨張と前進を重視することは、それを助長する要因にもなりうる、ということ。

これらを踏まえて自分は、櫻坂46に対して、順調満帆に見える今だからこそ、過去を捉え、未来を見据え、それを繋ぐ中間としての、この今を明確にし、これをコンテンツ全体で共有し、足場を固めて、そのうえで前進していくのが望ましいのではないか、という着地をした。

そして、今回の東京ドーム公演は、まさにそれを実行する公演として、自分の目には映った。ライブという制作から、それを強く感じ取ることができた。

先に言及した『Nobody's fault』『Cool』『Dead end』の演出。それらは全て、MVという作品の世界を軸に、新たに構成されたものであった。また、セットリストの組み方や演出によって、今の櫻坂46が「○期生」という枠組みや、「BACKSメンバー」というシステムをどのように捉えようとしているのか、といった意思表示が成されていたようにも感じられる。ライブ終盤、『BAN』の二番冒頭、選抜メンバーの間に割って入ってくるBACKSメンバーたち。その先陣を切る武元唯衣の堂々たるさま。まさに「私たちが、櫻坂46を、強くする」を体現する存在ではなかったか。

そして、55000人×二日間のファンで埋め尽くされた、あの東京ドームの空気感も格別だった。ひとつの思いを共有しながらも、それでいて各々が自由だった。そんなBuddiesに向けて投げかけられる言葉の数々。そのどれもが印象的に思い出される。全体を肯定し、その一方で全体を構成する個それぞれの物語を承認するという丁寧さは、上手としか言いようがない。

本当に、素晴らしい時間だった。

とはいえ、全体を通して全く気になる点が無かったわけではなく、特にそれが自分にとって肝心の部分にハテナを残すことになってしまっていた、ということは書き残しておかねばならないように思う。つまり、グループの新たな一歩を提示するべきポジションにあるであろう9thシングル表題曲『自業自得』から、結局、自分は確固たる何かを掴むことができなかったのだ。

自分は、先日公開された『自業自得』のMVの内容に肩透かしを食らってしまっていて(詳しい話は別の場所でしたい)それを上手くライブで昇華してくれることに期待していたのだが、残念ながら、そのようにはならなかったらしい。もちろん、パフォーマンス自体は非常に見ごたえがあった。そのものについての満足度は極めて高い。しかし『自業自得』がグループの新たな一歩だと感じることは、やはりできなかった。

そんなわけで、櫻坂46というグループの今を因縁の地、東京ドームに刻み込むという側面においては文句なしの100点満点、今後の展望についてはひとまず保留、そういう東京ドーム公演だった、というのが自分にとっての総評になる。

あらためて、夢のような二日間に感謝したい。

 

櫻坂46「3rd TOUR 2023」について。

2023年6月5日にnoteで公開した記事をサルベージして再編集。

2023年4月12日から同年6月1日にかけて、東京、愛知、福岡、神奈川、大阪の五会場で全十一公演行われた「3rd TOUR 2023」を、その千秋楽直後に振り返っている。

 

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前キャプテン、菅井友香の卒業をもって幕を下ろした「2nd TOUR 2022 “As you know?”」。それが櫻坂46としての第一章、青の時代の余韻が良くも悪くも残る、難しい状態の締めくくりであったことはおそらく間違いないであろう。彼女の卒業から一か月後に開催された「2nd YEAR ANNIVERSARY ~Buddies感謝祭〜」、それを踏まえたうえでの三期生の加入、5thシングル『桜月』の発売、そして開催された「3rd TOUR 2023」。

そこには、「第二章」の明確な一歩を提示する、櫻坂46の新たな在り方があった。

 

・「大人」を再定義する、ということ

前提。櫻坂46、および、その前身たる欅坂46の楽曲には、他者との関わりがテーマとして込められがちである。他者、それは自分以外の人間であり、身の回りに広がる世界であり、社会であり、平たく抽象的に捉えれば、自分の思いどおりにならない存在全般と言えるだろう。他の人の気持ちなんて実際のところは分からないし、社会は理不尽にまみれている。そして、かつての楽曲はそれらを否定的な文脈で捉えて、それらを拒否することで自らを肯定する、堅持しようとする傾向が強かった。「大人」というワードは、自らに対立する存在のことを指示していた。

しかし、このアプローチはその場しのぎの痛み止めにこそなれど、その実、たいへん不毛だと言わざるをえない。なぜなら、私たちは生きるに際して、他者との関わりから逃れることなど、できないからだ。その必然的帰結として、いわゆる欅坂46的なアプローチは『黒い羊』という袋小路に陥ってしまった。

生きるに際して逃れることができない、他者との関わりには前提として摩擦が付きまとう。他者は、思いどおりにならないからだ。であれば、程度はどうあれ、否応にも、それと向き合わなければならないはず。むしろ、必然的に生じてしまう摩擦との向き合い方を考えることに重点を置くほうが望ましい。それを拒否できるのは「子ども」の特権であろうが、しかし、時は流れ、彼女たちはもう「大人」なのだ。

 

・ドラッグとして、ではなく、自らの糧として

このような前提をもとに考えれば、自らの思いどおりにならない事態に対して嫌気がさしたとして、現実問題、私たちはその中で生きているという事実から目を背け、森へ帰るわけにはいかないはずで、それはつまり、コンテンツをドラッグ的に摂取することに対する是非の話題に繋がっていく。

もちろん、何が何でも我慢しろ、受け入れろ、という方向に話を持っていきたいわけではないし、その場しのぎの痛み止め的な処方を全否定したいわけでもない。「嫌気がさしている自分」という、自らの思いどおりにならない、自らの内側に潜む他者に対しても、おそらく向き合ったほうが良いだろう、という温度感で考えてみたい。

『Nobody's fault』『なぜ 恋をして来なかったんだろう?』『Buddies』という三本柱が櫻坂46としての第一章の始まりにおいて明確に提示していた、いわゆる欅坂46的なものに対するアンチテーゼの数々。それらをどのように摂取してもらいたいのか。第二章の基軸はそういうところにあるのではないか、と踏んでいる。

 

・『Cool』と『Start over!』のMVにある、共通点

両者に共通する、妄想オチという構造が、話題を進めていく糸口になる。

舞台として提示される薄暗いレストランと、日常のオフィス。それらの中で暴れまわる様子が描かれたのちに、今までの映像は妄想でしたとオチが付く。注目すべきは妄想の前後における状況の変化と着地の仕方で、『Cool』においては現実と虚構の境界そのものが曖昧になり、『Start over!』では机から落下するマグカップの色が変化する。

なるほど。妄想、という自らの内部で完結する活動は、決して周囲に大きな変化をもたらさない。しかし、全くもって変化が無いわけではないはずだ。妄想とは、実際のところ、自分と、自分の内に秘める別の自分、という他者との邂逅なのであり、その過程において自らは何かしらの変化をする。であれば当然、世界の見え方も変化する。そして、見え方が変わるということは、実質的に、世界そのものが変化するということでもあるからだ。

定義上、私たちは、他者の本質的な変容を外圧(=自らの積極的アプローチ)によって生じさせることができない。支配関係を構築することで、表面的にはそれを達成できるかもしれないが、それはあくまで表面的である、し、そもそも健康的でない。だから、他者の変容を望むに際しては自らの変容をベースに考えておき、それによって変容した自らに触発された他者の、内発的な変容に期待する、というのアプローチは極めて現実的なのではないだろうか。

自らの変容というアプローチは、振り返ってみれば、櫻坂46の第一章第一節「この世界を変えようなんて自惚れてんじゃねぇよ」の時点で明確に提示されてはいたものの、直接的な表現で固められた『Nobody's fault』の歌詞において明らかなように、そのプロセスについては非常に外圧的で、端的に言って、説教臭く、映りやすい。

それが『Cool』『Start over!』という直近の作品においては、メタファーというかたちで表現の内側に仕込まれている。これが面白い。メタファーは各々が自らの内で咀嚼するものであるから、内発的な変化に至りやすい。聖書が物語(=メタファー)という形式で作られているのには、まさにそういう効果が期待されている。

 

・フレームという、檻という、舞台装置

ここまでの話題をもとに「3rd TOUR 2023」を捉えていく。

メインステージの前面には四角いフレームのようにも見える液晶ディスプレイが、センターステージには上下に動く檻のようにも見える液晶ディスプレイが設置されていた本ライブツアー。それらを用いたいくつかの演出から読み取れるものは何か。

公演冒頭、セットリストの一曲目『Cool』においてセンターを務める大園玲は、センタステージから登場し、スキャンされ、アクティベイトされ、花道を歩いてメインステージに向かう。フレームの内側に入る。一方、本編最終曲の『桜月』において、そのセンターを務める守屋麗奈は、メインステージで行うパフォーマンスの終了後に、その余韻を噛み締めながら、一人、フレームを超え、センターステージの方へ歩き出し、檻の中に納まっていく。そういうエンディングが設けられている。

千秋楽でのみ披露された『Start over!』においても、楽曲の最後、センターを務める藤吉夏鈴は、一人、ふらつきながらもフレームの外側に出る。

前提部分の話題と絡めて捉えるならば、フレームという舞台装置に、現実と虚構の境界という意味を読み取ることは容易だろう。言うまでもなく、フレームの内側であるメインステージの側がコンテンツという虚構であり、フレームの外側、ライブを観に行っている私たちの側が現実である。そして、その閉塞性を強調するのがセンターステージ、つまり、私たち側にある檻というわけだ。現実と虚構は完全に二分されるものではなく、花道によって地続きになっている。それはまさに『Cool』と『Start over!』がMVの構造を用いて示唆するテーゼ、そのものではないか。

 

・新キャプテン、松田里奈体制における良い意味での、軽さ

全体的な空気感の話もしておきたい。

本ツアーはキャプテン、松田里奈体制による初めてのライブツアーだったが、全十一公演を終えて自分の内で最も印象に残ったのは、彼女の良い意味での軽さ、あるいは重くさせようとしなさだった。(※これは、キャプテン、菅井友香体制において付き物だった、ある種の重さを悪い意味で捉えつつの感想ではもちろんなく、純粋に、方向性の変化を感じ取り、この雰囲気も良いなと感じただけの話であることは誤解なきよう、付け加えておく。)

終演直前のMCにおいて各地で繰り返し用いられた「足を運んでくださった皆さんの、明日からの活力になったら幸いです」といった類のフレーズたち。それらは観客の意識の傾きを、心地良い仕方で現実に引き戻す効果があったように思う。重厚なコンテンツには付き物の、摂取した人間の傾斜・埋没という危険性を回避しようとするスタイル。あくまで現実を彩るものとしてのコンテンツ、という立ち位置を保とうとしている印象を受けた。

新曲『Start over!』のセットリストへの組み込み方についても同様の話ができる。かつての『不協和音』『アンビバレント』『黒い羊』のように、それらをダブルアンコールで披露して、即、終演というこれまで幾度となく繰り返してきたスタイルを今回は取っていない。物語に浸らせた後に、時間をかけて引き戻す。重く、しすぎない。

なるほど。没入できるほどに重厚なコンテンツを作るのみ、というのは、ある意味で無責任なのかもしれない。

 

・終わりに

櫻坂46は新たな理念を打ち出しているのかもしれない。

それは、彼女たちが表現するものについてのポジショニングであり、おそらく、その背景にはかつての反省が含まれている。これを「第二章」の明確な一歩と言わずして、なんと言えようか。そして、それを直接的な言葉で提示するのではなく、表現の中に忍ばせているところがカッコ良い。分かってる。

摂取したコンテンツの内側で閉じるのではなく、現実に回帰する。コンテンツを咀嚼し、消化し、自らの生そのものに還元する。させる。

そういった、良い意味での、軽さ。

昨晩公開された『Start over!』のTVCM、3パターンあるうちの最初にオンエアされたものを見たとき、自分は思わず、唸ってしまった。藤吉夏鈴による曲タイトルのコールが、もはや、こちらを揶揄うかの如く、とても軽かったのだ。

 

私的、櫻坂46史。04

2024年5月26日にnoteで公開した記事をサルベージして再編集。

櫻坂46として二度目となる東京ドーム公演を前にして、あらためて、いままでの作品を咀嚼しながらの振り返りを行っている。01~03で記した内容がそのままのかたちで多分に含まれているため、04、とナンバリングこそしているものの、これを01として読んでも差し支えないはず。むしろ、その方が良いかもしれない。

 

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2015年に欅坂46としてスタートし、五年後に改名し、そこから数えて四年目となる2024年の櫻坂46。このグループが歩んできた道のり、そして現在の立ち位置を、作品(=表現)という観点を中心にして一本の流れとして捉えていこうとするとき、私たちはそこに、私たち自身のすがた、つまり、この喧噪の時代のうちで揺らぐ現実の人間たちのすがたを映し見ることになる。そこにはアイデンティティに関する問題が通底している。

書こうとしていることと、その理由について。 

櫻坂46は2024年6月、三度目の東京ドーム公演を行う。一度目は改名前、欅坂46として。二度目は櫻坂46として、前キャプテン、菅井友香の卒業の舞台として。そして三度目、8thシングル『何歳の頃に戻りたいのか?』を引っ提げて回るライブツアー「4th ARENA TOUR 2024 新・櫻前線 -Go on back?-」の追加公演として。

躍進の2023年。その地続きにある、2024年の今。グループの勢いは未だ、留まるところを知らない。前を向いて順調に歩を進めているように見える。絶好調と言っても過言では無い。ライブは楽しい。制作の質も優れている。コミュニティの空気感だって、極めて良い……ように見える。

しかし、ふと落ち着いてこの状況を眺めるとき、自分はそこに、何か、危うさのようなものを感じることがある。そしてそれは、2023年の秋ごろあたりからずっと、自分の内で見え隠れしているらしい。この得体のしれないナニカは一体どういうものなのか。その輪郭を捉えてみたい。というより、捉えなければいけないような、そんな気がしている。

このままでは三度目の東京ドーム公演を観に行くことができない、とまでは思わないまでも、やはり、このような状態のままで、あの場所での公演を観たいとは思えない。後に触れることになるが、東京ドームはグループにとって、というより、グループを見続けている自分にとって、因縁とも言えるような場所になって、しまっているのだから。

自分の内でたびたび顔をのぞかせてくる、ナニカ。これを捉えるには、グループのをしっかりと見定める必要がありそうだ。そして、そのためにはグループのに至るまでの道のりを捉えることが欠かせない。このとき、積み重ねてきた数々の制作をあらためて読んでいく営みは大きな助けになると思う。グループ、そしてメンバーの状況そのものと制作内容の間に密接な繋がりを見いだす捉え方は(これから言及していくことになるが、ならざるをえないが)極めて危険な側面を持つ。しかし、アイドルというコンテンツの根底にある前提、様々な二重性を前にして、両者の繋がりを否定することはできない。表現する側も、表現を受け取る側も、表現自体に全く影響を受けないなんてことは現実的に考えられない。 ゆえに、こういった読み方には少なくない意味を見いだせる。

絶好調に見える今、この瞬間の解像度を上げるために過去を読む。そして、すでに記したように、そこに通底するのは一貫してアイデンティティに関する問題なのだから、これを捉えようとするうえで、私たち、現実の世界に生きる人間たちが辿ってきた価値観や思考様式の変化、つまり、歴史は、当然ながら参考になる。

というわけで遠回りにはなってしまうが、まずは、現代への大きな分岐点となった、近代という時代にGo on backするところから、話を始めていきたい。

 

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君は君らしく生きていく自由があるんだ
大人たちに支配されるな

欅坂46サイレントマジョリティー』

科学技術と啓蒙思想の発展、それらに端を発する産業革命と市民革命によって用意された近代という舞台。その壇上に上がる自由で平等な個人としての人間たち。

宗教、階級、伝統、共同体といった、これまでの社会において人間を厳格に規定していたさまざまな枠組みが瓦解していくなかで、人間は自由と平等を獲得する。そういう人間を構成単位とする、個人主義の社会ができあがる。 今に生きる私たちはみな、それぞれが固有の意志を持ち、それに基づく価値判断を行っている、という自覚症状がある。ゆえにそれを前提として称揚する、自由で平等な個人主義の社会という発明は、私たちにとって大きな価値がある……という常識を私たちの多くは持っている。 

しかしこの発明は、必ずしも良い影響のみをもたらすものでは決してない。

らしさって 一体何?
あなたらしく生きればいいなんて
人生がわかったかのように上から何を教えてくれるの?
周りの人間(ひと)に決めつけられた
思い通りのイメージになりたくない
そんなこと 考えてたら眠れなくなった
だからまたそこの角を曲がる

欅坂46『角を曲がる』

社会において人間を外側から規定する、さまざまな表面上の枠組みが取り払われていくことで、その中に生きる人間は自由と平等を獲得する。しかしそれは、みな等しく、剥き出しの個人になる、ということでもある。自分という存在を位置づけるものや、自分が価値判断を行う際に持ちいる物差しは、自らによって自分の内側からそれぞれが見いだすものだと捉えられるようになる。

個人主義の社会は私たちに「自分らしく生きよ」とだけ、優しく、そしてぶっきらぼうに言い放つ。

ここに根本的で致命的な問題がある。

他の動物に比べて極めて未熟な状態で生まれてくる人間は、他者からの働きかけ(=社会において自らを外側から規定するさまざまな枠組み)によって自らのアイデンティティを徐々に形成していくしかない。もっとも根源的な話をしてしまえば、私たちは言語を用いて思考する、世界を意味付けていくが、その言語からして、もとより自らのうちにあるものではない。人間は他者から与えられた借り物の言語を用いることでしか、思考することができない。世界を認識することができない。

私たち人間が健康的に生存していくためには、この問題を乗り越える必要がある。しかし、自由で、平等で、「自分らしく生きよ」とだけ言い放つ個人主義の社会が広く浸透し、それが素朴に捉えられるようになるとき、その道は無かったことにされてしまう。

たしかに、宗教、階級、伝統、共同体といった枠組みは、個人の意志を抑圧する機能を有している。しかし、それらは、人間それぞれのアイデンティティを外側から規定する、ある意味、拠りどころでもあるはずだ。それらを取り払うことで成立し、素朴に捉えられるようになった個人主義の社会において、その代わりとなるものは自らの内側にしかないとされる。ただし、当然ながらそれは、かつてのように万人が自明のものとして共有できる類のものではないのだから、したがって、個人主義の社会に生きる人間は慢性的な不安を抱えてることになる。このような話題について、政治学者の宇野重樹は、アレクシ・ド・トクヴィルによる議論を参照しながら、以下のように纏めている。

自分が「オンリーワン」な存在であることに誇りを感じる個人は、同時に自らが、同じく自分を「オンリーワン」だと思っている大勢のうちの一人にすぎないこともわかっている、ということになります。結果として、自分らしくあることに人一倍敏感な平等社会の個人は、逆説的に、自分の同等者の総体である社会の声に対し、無力感にさいなまれてしまうのです。

宇野重樹『〈私〉時代のデモクラシー』岩波新書 P.14

無力感にさいなまれる個人、社会のなかで宙づりになっている個人は、自分という存在を規定してくれる、分かりやすい「何か」を求めずにはいられない。自由や平等といった概念は、実のところ、非常に難しい。そしてそれらを前提とする個人主義の社会も難しい。かけがえのないものだと思えると同時に、とても重たい。

私たちは今、非常に難しい時代を生きている。

 

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欅坂46が描くもの、「欅坂46らしさ」について。

この流れを踏まえたうえで、欅坂46の作品に繰り返し登場していた、アイデンティティに関する問題と対峙する人間の描かれ方と、グループ自体が辿ることになった道のりをあらためて捉えていく。欅坂46が描いていた「自分らしさ」、そして「欅坂46らしさ」を巡る問題とはどのようなものか。

絶対的センター、というアイコンを作りあげ、先ほど記してきたような変化の地続きにある今に生きる人間たちの潮流に合う、ウケの良いイメージ(例えば、大人に歯向かい、社会に中指を突き立て、もしくは、自己に閉じこもり、どちらにせよ他者を否定することで、自らの立ち位置、「自分らしさ」をなんとか確保しようとする、といったもの)を、分かりやすく前面に出す制作やプロモーションを連続させること。所謂「欅坂46らしさ」の確立は、グループの躍進に大きく貢献した。

特に顕著だったのは、4thシングル『不協和音』と、1stアルバム『真っ白なものは汚したくなる』で間違いない。

I am eccentric 変わり者でいい
理解されない方が よっぽど楽だと思ったんだ
他人(ひと)の目 気にしない 愛なんて縁を切る
はみ出してしまおう 自由なんてそんなもの

欅坂46『エキセントリック』

表題曲の『不協和音』は言わずもがなとして、カップリング曲の『エキセントリック』、『真っ白なものは汚したくなる』のリード曲『月曜日の朝、スカートを切られた』、どれも所謂「欅坂46らしさ」に溢れている。

風が止んだって
ハッピーでいられるよ
そばにいるだけでいいんだ
そんな生き方も
悪くないんじゃない?
愛しさがずっと続くだろう
ハグでもキスでもない曖昧なままで So cool!

欅坂46『風に吹かれても』

それらに続いて発売された5thシングル表題曲『風に吹かれても』は、この行き過ぎたイメージを柔らかくしようとした作品だと捉えられる。しかし、この楽曲は当時「笑わないアイドルが笑った!」的なプロモーションが音楽番組等において大量に行われた。結果、これまでに積み上げてきた所謂「欅坂46らしさ」というイメージがさらに固まることになった。意外に思われるかもしれないが、『風に吹かれても』は発売当時、不評な意見がそれなりに多かったことも付け加えておく。

目の前のガラスを割れ!
握りしめた拳で Oh! Oh!
やりたいこと やってみせろよ
おまえはもっと自由でいい 騒げ!

欅坂46『ガラスを割れ!』

そして6thシングル表題曲『ガラスを割れ』。すっかり凝り固まってしまった所謂「欅坂46らしさ」というイメージを壊して次の領域に進んで行こうとする楽曲、という読み方をすんなりできる楽曲だが、これも今までの枠組みの中で消化されてしまったように思える。割られるべき「目の前のガラス」は「眼前に広がる理不尽な社会」として捉えられた。

素朴に捉えられた個人主義の社会に生きる不安な個人に対してドラッグ的な快楽を提供する、所謂「欅坂46らしさ」に、自分を含め、多くのファンが熱狂していた。コンテンツの方向性の舵を取る大人たちも、みな、熱狂していた。自身の身体によってこれを表現するメンバー本人たちも、少なからず影響を受けていた。人格形成の真っただ中、多感な時期にあったメンバーにとって、それはもはや必然とも言える。

作品と表現者は固く結びついていった。欅坂46の活動は、所謂「欅坂46らしさ」によってがんじがらめになっていった。このような状況のまずさは明らかだが、そもそも「自分らしさ」という問題についての葛藤に対するアプローチは、所謂「欅坂46らしさ」の中で繰り返し表現されていたような類のものだけで本当に良いのだろうか、という疑問も大きい。大人に歯向かい、社会に中指を突き立て、もしくは自己に閉じこもり、どちらにせよ他者を否定することで、自らの立ち位置、「自分らしさ」を確保しようとする。それが「自分らしく生きる」ということなのか。「自分らしさ」とは、本来的に、他者の存在を前提にして形成されていくものなのであり、である以上、その前提から目を瞑りながら、頑なに大切にしようとする、その、自らの思う「自分らしさ」なぞ、実のところ、ただの空虚でしかありえないのではないか。そのような素朴な捉え方のままでいられるのは、せいぜい、子どものうちだけなのではないか……

Blah Blah (Hey!)Blah Blah (Hey!)
孤独なまま生きていたい
Blah Blah (Hey!)Blah Blah (Hey!)
だけど一人じゃ生きられない

欅坂46アンビバレント

いや、もちろん、そんなことは誰しもが本当は、分かっている。自分が欅坂46に傾倒したのはちょうど大学を卒業し、社会人になりたての時期だった。満員電車の中でイヤホンを付け、大音量で『エキセントリック』を再生する。居心地の悪さを感じている自分が、楽曲の主人公である「僕」によって承認されたような気になる。安心する。そして薄っすらと、ある種の恥ずかしさがこみ上げてくる。これでいいのだろうか、と。

しかし、いちど確立したあまりにも強くて分かりやすい、そして心地の良いイメージ、所謂「欅坂46らしさ」を手放すことはどうしてもできなかったらしい。

黒い羊 そうだ 僕だけがいなくなればいいんだ

欅坂46『黒い羊』

8thシングル表題曲『黒い羊』は、まさに所謂「欅坂46らしさ」の最終到達地点として捉えられる。ところが『黒い羊』は、グループが初めて東京ドームで行った公演「欅坂46 LIVE at 東京ドーム ~ARENA TOUR 2019 FINAL~」において(当時の最新シングル表題曲であったにも関わらず)セットリストから外されていた。タイトルからも分かるとおり、この公演は2019年に行われたアリーナツアーの追加公演としての位置にある。しかし内容は全くもって別物で、そして、このアリーナツアーにおいても『黒い羊』は披露されていない。

そして、本公演の話題に触れたからには、そのダブルアンコールで披露された平手友梨奈によるソロ楽曲『角を曲がる』に注目しないワケにはいかないだろう。この楽曲は極めて異質な立ち位置にあるからだ。

そもそも、この楽曲は最初から欅坂46の名義で世に放たれたものではない、というのがポイントだ。平手友梨奈が主演を務めた『響 -HIBIKI-』という映画が2018年9月に公開され、そのエンドロールで流れたのが、平手友梨奈ソロ名義としての『角を曲がる』だった。この楽曲は映画公開後にCDが発売されるわけでも無く、音源が配信されるわけでも無く、突如、一年後の東京ドーム公演、そのDay2、ダブルアンコールで披露され、その後、欅坂46YoutubeチャンネルにてMVが公開された。 このとき、名義は平手友梨奈から欅坂46に変更された。

自分はそこに、意図を読まずにはいられない。

他者から提示される「自分らしさ」との折り合いをつけられず、どうすれば良いのかが分からなくなり、一人きりで角を曲がる孤独な散歩者。そのすがたはグループが辿ってきた道のりと綺麗に当てはまるように見えてしまうし、「自分の同等者の総体である社会の声に対し、無力感にさいなまれてしま」った、自由で平等な個人主義の社会に生きる、自己矛盾を抱えた個人のどん詰まりとも捉えられてしまう。

『ガラスを割れ!』で始まり『角を曲がる』で終わる、そんな、東京ドーム公演。

このような読みを踏まえれば、東京ドーム公演に際して唐突に提示された「破壊と再生」というテーマや、それに合わせて物販に追加された「Be yourself」とだけ書かれた奇妙なグッズの数々などの裏側に、様々な含みを見いだすことができる。

しかし、2024年現在の私たちには分かるとおり、あのとき、グループの再生は叶わなかった。そもそも破壊すること自体ができなかった。

きっと、一番比べちゃうのは自分たちであって……

「僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46守屋茜の台詞

何かに追われて、何かが自分の前にチラつくっていうのが、これからの欅坂にとってプラスになることでは無いのかなって。

「僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46小林由依の台詞

新しいグループになるためにはやっぱり今までのイメージっていうのがちょっと邪魔になるというか……

「僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46菅井友香の台詞

ファンも、コンテンツの舵を取る大人たちも、そしてメンバーたち自身も、この所謂「欅坂46らしさ」という呪縛を解くことができなかった。

未知の脅威によって社会全体がパニック状態に陥ったという不運も重なり、発売が延期されていた9thシングル『10月のプールに飛び込んだ』の制作は中止となり、そのカップリング曲として予定されていた『誰がその鐘を鳴らすのか』を、形式的に最後の楽曲として位置づけ、欅坂46は幕を閉じる。

だけど問題は
誰がその鐘を鳴らすのか?
この世の中に神様はいるのかい?
会ったことない
その綱を奪い合ってたら
今と何も変わらないじゃないか
そばの誰が誰であっても鳴らせばいいんだ
信じるものがたとえ違ってても
そう平等に…

欅坂46『誰がその鐘を鳴らすのか?』

いったいどこで道を間違えたのか。何がいけなかったのか。どうすれば良かったのか。欅坂46を捉えなおす試みはすでに何度も行っているが、そのたびに、心の中にはモヤモヤが残る。そのうえで、時間を少し、進めてみたい。

 

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三作品を通して行われる「やり直し」と、その下地としての『桜月』について。

櫻坂46の2023年における大躍進を支えた作品、6thシングル表題曲『Start over!』と、7thシングル表題曲『承認欲求』。そして、それらに続く8thシングル表題曲『何歳の頃に戻りたいのか?』。三作連続で表題曲のMVの監督を務めた加藤ヒデジンによれば、これらの作品は一連の流れとして捉えることのできる制作がなされており、そこにはやはり、アイデンティティに関する問題が通底している。 

『Start over!』。やり直す。何を?……というよりも、なぜこのタイミングで?という疑問が先に浮かぶかもしれない。改名し、1stシングル『Nobody's fault』で再デビューしてからすでに三年が経っている。だから、まずはこの疑問を解決する糸口を探ってみたい。注目したいのは『Start over!』が初めて披露されたタイミング。それはグループにとってどういう位置づけで、その直前には何が行われていたのか。

2022年11月、前キャプテン、菅井友香が卒業する。年が明けて、グループに新しいメンバー、三期生が加入する。2023年2月に5thシングル『桜月』が発売され、それを引っ提げて回るライブツアーが4月から開催される。その千秋楽直前に『Start over!』のMVが公開され、そして、千秋楽のアンコールが初披露の舞台になる。『桜月』を軸に据えたライブツアー。新キャプテン、松田里奈体制による初めてのライブツアー。三期生という、欅坂46だった時期の無いメンバーが加入してから回る、初めてのライブツアー。その最後に、やり直しの宣言が行われている。

2023年4月に発売された雑誌『BRODY 4月号』を読み返してみる。そこでは5thシングル表題曲『桜月』に関する特集が47ページに渡って大々的に組まれており、センターを務めた守屋麗奈やその他メンバーのほか、振付師のTAKAHIRO、MV監督の金野恵利香、アートディレクターの安田晃大が前面に乗り出すかたちで、『桜月』の制作を、そして、グループそのものを、様々な角度から言語化する営みが展開されている。表紙に付されるキャッチコピーは「櫻坂46“第二章”開幕」。

『桜月』によって櫻坂46「第二章」の幕が上がる。では『桜月』という楽曲は一体どういうものなのか。ここであらためて、捉えてみたい。

暗い夜空の先 確かに今も 満開の桜が見える
あの花は僕が大好きだった人だ
大人になって 夢や理想が思うようにならなくなっても
あんなに美しい散り方ができたらな

櫻坂46『桜月』

MV監督を務めた金野恵利香によれば、『桜月』のテーマは「別れ」、そして「審美眼」だとされる。これを踏まえたうえで歌詞を読み、MVを観ていく。

大切な人との「別れ」を経験した主人公の守屋。12人のメンバーによって模された時計が逆向きに回りはじめる。守屋はその中心にいる。ときに本を広げ、ときに瞼を閉じ、その人との思い出、過去を振り返っていく。もちろん、過去は美しいだけではない。すれ違い、葛藤、閉塞感、様々な負の側面も想起される。抱いていた夢や理想は思うようにならない。しかし、それらすべてを踏まえたうえで、過去を美しいと捉えていく。閉じた瞼の先に見える夜空。そこに映る満開の桜。それを見いだす「審美眼」。時計は動き出す。そして、肯定的な新たな一歩が踏み出される。

これ以上、言葉の間を埋める必要は無いだろう。『桜月』は、まさに櫻坂46の「第二章」、その始まりの楽曲として相応しい読みができる、そういう「含み」のある楽曲として作られているように感じられる。

では、新たな一歩が踏み出され、「第二章」が始まり、そしてやり直しの宣言が行われるにあたって振り返られることになった過去、すなわち、櫻坂46の「第一章」とは、どのようなものだったのか。

進めすぎた時間を、今度は少し、巻き戻してみよう。

 

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蓋をすることで行われる欅からの離反と、それに起因する軋轢について。

私たち欅坂46は、この5年間の歴史に幕を閉じます。そして欅坂46とは、前向きなお別れをします。10月に予定している欅坂46のラストライブにて、欅坂46としての活動に区切りをつけさせていただきます。そして新しいグループ名となり、生まれ変わります。

日刊スポーツ『菅井友香欅坂46と前向きなお別れ」スピーチ全文』

https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202007160000949.html

所謂「欅坂46らしさ」という幻想、呪縛を、グループ名を変更するという荒業によって解こうとした欅坂46→櫻坂46。当時のキャプテン、菅井友香による改名発表のスピーチや、その後の各種メディアにおけるインタビューなどにおいて、否定的な意味での改名では無い、ということが繰り返し強調されていたが、そもそも通常であれば改名なぞする必要が無いことを踏まえれば、そこに否定的な要因があったことは明らかで。改名前後、様々な場所で多くのメンバーが葛藤を露わにしていたことからも、それは容易に読み取れる。

これを肯定的に捉えるのであれば、それでも前向きな改名であると主張し続けたのは、欅坂46としての五年間そのもの自体を否定的なかたちで終わらせたくなかったからだろう、という読みができる。もちろんそれもあるだろう。

しかし、ここまでの読みを踏まえるならば、残酷ながら、このように捉えることもできそうだ。グループを取り巻いてたあらゆる立場の人間の手によって、所謂「欅坂46らしさ」という呪縛が作り上げられ、それをどうにかして解くべく、グループは改名せざるを得なくなってしまった、という、その事実を認識することで生じざるをえない罪悪感、これをうやむやにしよう、という意図が働いていたのではないか、と。

みなが共犯者で、みながそこから、目を背けた。

櫻坂46としての1stシングル表題曲『Nobody's fault』。誰のせいでもない。誰のせいでもないが、誰もが、悪い。しかしそれを、包み隠したい。うやむやにしてでも、前に進まなければならない。そうでもしなければ、グループ自体が瓦解してしまう。

誰鐘のラストの振付でも、欅坂46との前向きな別れが表されていますね。
「はい。欅のエンブレムを解き放ってから箱にしまって、大切に取っておくという意味が込められています。」

『月刊B.L.T. 2020年10月号』菅井友香インタビュー

大切に取っておくというより、むしろ、蓋をして見えなくする。とはいえ、欅坂46としての五年間が無かったことになるわけでは決してない。根底部分に処理することを保留にした不発弾を抱えたまま、櫻坂46としての活動は始まる。ゆえに、グループが辿ることになる道のり、そして表現は、複雑な色味を呈するようになる。それは深みとして機能する一方で、多くの軋轢を生んでしまう。

所謂「欅坂46らしさ」からの離反、というテーマ設定。

櫻坂46としてのデビューシングル『Nobody's fault』の三本柱、『Nobody's fault』『なぜ 恋をして来なかったんだろう?』『Buddies』には、それが明確なかたちで描かれている。他者を否定し、自らの内側に籠る、もしくは分かりやすい何かに飛びつくことで自分を守る、から、矢印を外側に向けること、そして、自らの内に信念を持つことへの変化。

No! No! No! 他人(ひと)のせいにするな
鏡に映ったおまえは誰だ?
勝手に絶望してるのは
信念がないからだってもう気づけ!

櫻坂46『Nobody's fault』

幸せは 参加すること

櫻坂46『なぜ 恋をして来なかったんだろう?』

しかし、現実は複雑で難しい。人間は、変わろうとしたところで、なかなか変われるものでは、もちろん、ない。

BANされても
禁止されても
ダメだって言われても
もう 今さら違う自分に
なれるわけないじゃない?

櫻坂46『BAN』

矢印を外側に向ければ、当然ながらそこには自分とは異なる存在、自分にはどうすることもできない存在、他者がいる。そして、他者との関わりには必ず、摩擦が生じる。しかしそれ自体を拒否することは、前提の否定であり、ナンセンスであろう。

何回 ノックしたって埒が明かなくて
こっちと向こう 言語が違う 異なる世界
何が正しいなんて 誰もわからない
大事なのは その仕切りを壊すこと

櫻坂46『断絶』

ゆえに、櫻坂46の「第一章」を締めくくる位置づけにある1stアルバム『As you know?』のリード曲が『摩擦係数』であること、そして『摩擦係数』が現在、櫻坂46の名刺代わりの一曲として位置づけられていることの意味合いは非常に強い。

このままで THE ENDか
ぶつかりあって 分かり合うしかないんだ
悪いけど ほっとけない
もっともっと熱くなっちゃいけないか?
摩擦

櫻坂46『摩擦係数』

所謂「欅坂46らしさ」からの離反を掲げつつも、すんなりそれに順応できるわけもなく、しかしそうであっても、アイデンティティに関する問題について、より現実的なかたちで、大人として、向き合おうとするさま。このような緊張状態だからこそ、ときに『条件反射で泣けてくる』のだ。

後になって振り返ると あの頃ってあれはあれで楽しかったなって
思えて来るもんなんだな

櫻坂46『条件反射で泣けてくる』

過去に蓋をしつつも、制作においては、過去からの一本の筋が明確に読み取れる。

ここにいてもしょうがないさ
間違ってたのは自分だ
行き止まり(dead)行き止まり(end)
過去と未来 繋ぐ今をどう生きるか?

櫻坂46『Dead end』

所謂「欅坂らしさ」からの離反。その先へ。

しかし、この一本の筋が分かりやすいかたちでファンに提示されることは、櫻坂46「第一章」の大部分においては、ほぼ無かった。 過去に蓋をしているのだからあたりまえと言えばあたりまえなのだが、そもそも、作品の意味を前面に提示すること自体が明確に避けられていたことを強調しておきたい。ストーリーや世界観を重視したライブは行われなくなり、楽曲やMVの解釈に関する言語化も抑えられるようになった。それらは意味の固定化に繋がりやすいものだから、かつてのようなコンテンツ全体の硬直化を避けるために、といった意図が働いていたのかもしれない。気づけばいつからか「世界観」という言葉は「世界」という言葉に置き換えられるようになっていた。これもおそらく、意図的だ。

そして、何より伝えたかったのが楽曲の捉え方といいますか、解釈の仕方が本当に人によって違うのだなと感じるんですよ…最近は余計に

私自身もその面白さに気づかされたと言いますか、また一つパフォーマンスの楽しさを見つけられました
その出来事が本当に嬉しかったです

皆さんにも沢山自分なりの解釈を見つけていただければと思います
すごく楽しいです、本当に

藤吉夏鈴 公式ブログ『#3____1stシングル』2020/12/11
https://sakurazaka46.com/s/s46/diary/detail/36907

解釈をファンの側に全面的に委ねる、それを促すという方針が、コミュニティ内の豊かな土壌の形成に大きく寄与していったことは間違いない。ただし一方で、おそらくこのような方針を選択したがために、グループおよびメンバーと、一部のファンの間で軋轢が生じてしまうケースが少なくなかったということは、忘れずに記しておかねばならない。

例えば、2021年7月9~11日の三日間にわたって、富士急ハイランド・コニファーフォレストで開催された「W-KEYAKI FES.2021」。このライブの後に起きた騒動は、私たちの記憶にいまだ、深い傷を残している。

日向坂46との合同開催で行われたライブ、その初日は櫻坂46による単独公演であり、それは改名してからグループ全体で行う、初めての大型ライブだった。過去に蓋をした櫻坂46は、その時点で持っている櫻坂46名義の楽曲すべてを使って、できるかぎりのパフォーマンスをした。(シングルが二枚しか発売されていないため)そもそも曲数が足りない。偏ったフォーメーションの楽曲しか持っていなかった(=前列八名を固定して最後列のメンバーのみを入れ替えるという、変則的な選抜制度を取っていた)ことから、広い会場に複数設営されたステージを移動する時間を埋められるような、一連のセットリストを組むこともできない。結果、ほぼすべての楽曲の間にダンストラックを挟んでライブを乗り切る、という荒業が行われた。

欅坂46から櫻坂に変わって、ここに立てていることが本当に誇りです。私は櫻坂46になって、改めて仲間の大切さに気付きました。辛いときには支え合い、嬉しいときには分かち合える、そんな存在が近くにいることが本当に幸せです。みなさん、いつも応援ありがとうございます。
今日からみなさんは「Buddies」です。

山﨑天のスピーチ「W-KEYAKI FES.2021」一日目『Buddies』曲間

グループはこの苦境をなんとか乗り切った。それを演出するかのように、公演中、降り続けていた雨は、徐々に弱まっていった。

しかし、ライブ終了後、一部のファン(それも少なくない数のファン)からは「物足りない」「欅坂のときの曲を聞きたかった」といった声が上がり、それがメンバーたち自身にも届く事態が発生してしまった。前者の意見に関してはたしかに仕方のない部分もある。が、後者については慎重に考えねばならないはずだ。

求められるものが櫻坂の曲ではなく、
欅坂の曲ということが
やっぱり自分の中では凄く悔しくて

櫻坂としての楽曲が
皆さんの心にまだまだ届いていないんだな、
と改めて実感していたりしました。

小池美波 公式ブログ『☺︎‬』2021/7/14
※ブログクローズドにつき、リンク無し。

向いている方向、意識の食い違い。そしてそれは、櫻坂46「第一章」の最終節、2022年11月8~9日に開催された「2nd TOUR 2022 “As you know?” TOUR FINAL at 東京ドーム 〜with YUUKA SUGAI Graduation Ceremony〜」において爆発してしまう。

二度目の東京ドーム。櫻坂46としては初めての東京ドーム。キャプテン、菅井友香の卒業の舞台。その一日目。本編を〆る楽曲『摩擦係数』の終了直後、会場全体が白から緑へと変わっていった。そしてアンコールが明け、菅井友香の卒業セレモニーが始まった。欅坂46時代の『Overture』が流れると同時に、大多数の観客の内で湧き上がった「何か」が放出され、それがどよめきとなった。一曲目『10月のプールに飛び込んだ』のイントロが流れ出したそのとき、誰かの嗚咽、むせび泣く声をマイクが拾っていた。そのマイクはすぐに電源を落とされた。曲中、森田ひかるはステージ上にいなかった。 そして、二日目。本編後半、『Buddies』二番の冒頭、各々が自由にポーズを決める箇所にて、藤吉夏鈴は頭を下げ、その前で手を組み、観客側に向けて祈りを捧げていた。

これは行われていたことを表面的に羅列したにすぎず、その裏側は現在に至るまで明かされていない。今後も明かされないような気がしている。ゆえに、その真意は読むしかない。そして自分はそれを、櫻坂46の根底部分にある「処理することを保留にした不発弾」という問題が前景化した瞬間であったと捉えている。

所謂「欅坂46らしさ」からの離反を急ぐにあたって過去に蓋をし、その清算を明確なかたちでは行ってこなかった櫻坂46。意味を前面に提示することを控えるようになった櫻坂46。しかし、ここまでに記してきたように、グループやメンバーの振る舞い、表現される作品を見ていけば、そこに過去と今を繋ぐ一本の筋と、グループが、メンバーが、今、向いている方向そのものを読むことは容易にできる。

そもそも「2nd TOUR 2022 “As you know?”」の本編は『条件反射で泣けてくる』に始まり、『摩擦係数』で終わるのだ。各々がそれらを自らの内によって解釈し、「過去」を消化すること。おそらく期待されていたのはそういうことで、しかし、それはまるで、伝わっていなかったのではないか……

そしてその一か月後、2022年12月8~9日に「2nd YEAR ANNIVERSARY ~Buddies感謝祭〜」が開催された。櫻坂46「第一章」のポストクレジットシーンとして捉えることのできる本イベントは、そのタイトルからも分かるとおり、所謂ファンミーティングのような形式で行われた。そこでは、クリエイティブ面を中心に櫻坂46において多岐にわたる役割を担う、振付師のTAKAHIRO自らがステージに立ち、自身が組み立てるパフォーマンスを軸に、楽曲およびグループそのものの解説、言語化を、すなわち共有を行う時間が大々的に設けられた。

なぜ、このタイミングでこのような試みが行われるのか。なぜ、「第二章」の始まりが『桜月』で、直後、その解説が雑誌において大々的に特集されるのか。そしてなぜ、『桜月』を下地にして『Start over!』、やり直しの宣言が行われるのか。

ここまでくれば、すべては言うまでもないことのように思えてしまう。

 

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あらためて欅坂46を捉えなおし、櫻坂46の「第一章」を捉えなおし、「第二章」の始まりである『桜月』を捉えなおし、これでようやく、『Start over!』『承認欲求』『何歳の頃に戻りたいのか?』という三部作に向き合う準備が整ったと思われる。これでようやく、櫻坂46のに向き合うことが、できそうだ。

 

6thシングル表題曲『Start over!』。やり直す。MV監督、加藤ヒデジンによれば、そのMVの中で描かれるのは「凝り固まったものを破壊するような単純さと無邪気さ」である。

楽曲の主人公、藤吉は、閉塞的なオフィスの中で書類をぶちまけ、花瓶から花を引っこ抜き、コピー機を床に落とし、ラックを豪快に倒して暴れまわる。中盤、退屈気に佇む小林の腕を掴んで引っ張っていき、壁を打ち破り、熱い抱擁をし、スパークラーによって煌びやかに演出された空間で、二人だけの世界を踊る。噛み締める。そして「君は僕の過去みたいだな 僕は君の未来になるよ」という一節から、ラストの解放へと向かっていく。

このMVにおいて自分が最も注目したいのは、これら一連の流れが、主人公である藤吉の内面においてなされる妄想だと読める演出にある。 冒頭部分、肘をついて、なにか物言いたげな表情を浮かべる藤吉は、鼻血を垂らしながら机に突っ伏してしまう。肘にぶつかった青いマグカップが床に落ち、藤吉自身もそれに続く。そして、その直後のカットで無邪気な笑みを浮かべながら起き上がり、上に記したような展開がなされていく。 エンディングを見ていくと、この一連の流れの先で、冒頭部分に描かれた床に落ちていくマグカップの絵が逆再生されて、机の上に戻っていく。合わせて、机に突っ伏していた藤吉も逆再生で上半身を起こす。そして何事も無かったかのように、藤吉が暴れ回る前の、元のオフィスのカットが提示される。

なるほど。藤吉は実際に暴れ回っていたわけでは無さそうだ。そもそも、床に倒れ込んですらいないではないか。机に突っ伏しながら行われる妄想のなかで「凝り固まったものを破壊するような単純さと無邪気さ」が描かれている。そして、妄想を終えた藤吉は垂れる鼻血を手首でぬぐい、左の口角を血で赤く染めながら、含みのある笑みをこちらに向ける。

足踏み、心臓の鼓動、そして、鼻血。『Start over!』の主人公は、自らの内面において自由で主体的な自分を発見し、高揚感を感じている。

このような話題について、政治学者、フランシス・フクヤマは、著書『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』の中で「「アイデンティティ」という概念の登場は、社会の近代化が始まるとともに現れた」と捉えながら、以下のように記している。

アイデンティティ概念の土台となったのが、自分の内面と外面は異なるという考えである。(中略)近代のアイデンティティ概念は〈ほんものの自分〉に至上の価値を見いだし、表現されていない内面の存在を認めることに重きを置く。つまり、外面の自己ではなく内なる自己を重視する。

フランシス・フクヤマ(訳:山田文)『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』朝日新聞出版 P.48

外面の自己、つまり、宗教、階級、伝統、共同体といった社会の枠組みによって定められる自分から、内なる自己=「ほんものの自分」への意識の移行。そのような枠組みを取り払っていくことと社会の近代化は密接に繋がっているのだから、近代に生きる人間において、枠組みによって定義されない内なる自己への意識が高まるのは必然と言える。そしてフクヤマは、このアイデンティティという概念の登場を宗教改革と結び付け、この概念、人間の外面と内面を区別し、このうち内面の方を重視するという考え方の出発点になる人物が、宗教改革の中心人物、神学者マルティン・ルターだと指摘する。

ルターによれば、カトリック教会が提示する儀式や行いをいくら重ねたところで、それは外面を取り繕うものにすぎず、人間に真の変化をもたらすものでは決して無い。なぜなら、神の恵みは、神の自由な愛の行為によってのみ授けられるのだから。人間は目に見えない内面の信仰によって、義とされる。

しかしフクヤマは、ルターはあくまで出発点にすぎず、現代のアイデンティティ理解からは遠いところにあると捉えて、その理由を次のように纏めている。

ルターは内なる自己の自由を称揚するが、この自己にはただひとつの面しかない。信仰、神の恩寵を受け入れることである。(中略)第二の理由は、彼の考える内なる自己が、新たに発見した自由を公に承認されることを求めていなかった点にある。

フランシス・フクヤマ(訳:山田文)『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』朝日新聞出版 P.52

ここで私たちに馴染み深い言葉が登場する。そう、「承認」である。

キリスト教の精神を前提とした人間の外面と内面の区別、そして内面の重視は、その前提からして、着地点が「神からの承認」となる。ゆえにこの前提が崩れれば、当然ながら、その着地点も変化していく。ここまでを踏まえたうえで、7thシングル表題曲『承認欲求』を捉えていきたい。

 

『承認欲求』のMVは、主人公の森田が、教会で祈りを捧げながら平穏な顔付きをしているカットから始まる。しかし森田は直後、イラつきを感じる。掛けていたメガネを床に落として、踏み潰す。ダンスシーン。舞台は聖堂から画廊へと移行していく。展示されている絵画の数々は、画面上、右側から左側に向けて流れる一本の時間の筋を感じさせる。そして中央部、モネの『睡蓮』を背景にして森田の遊離が描かれ、ラストのダンスシーンに繋がっていく。

社会の近代化と、人間の思考様式の変化。その出発点についてフクヤマがルターの宗教改革に着目したように、哲学者のハンナ・アレントはその著書『人間の条件』の中で、ガリレオ・ガリレイによる天体望遠鏡の発明を強調している。

ガリレオが行ったのは、それまで誰もしたことがなかったこと、望遠鏡を使って宇宙の秘密を人間が「感覚的知覚の確実さをもって」認識できるようにしたことだった。人間の手の届かないもの、不確かな思弁や創造に頼るしかないと思われていた領域に、地球に拘束された被造物が手を伸ばし、その肉体に制約された感覚器官で捉えることができるようにしたのである。

ハンナ・アレント(訳:牧野雅彦)『人間の条件』講談社学術文庫 P.468

天体望遠鏡の発明は、世界の解像度を飛躍的に上げる。しかしそれは、人間の素朴な認識(例えば、地球の周りを星々が回っているように見えるという確かさ)の正しくなさが明らかになることとの背中合わせでもある。そして、神の被造物たる人間、神の派出所たる人間の理性によってもたらされたこの認識が正しくないのであれば、神という絶対的なはずの前提部分にも、揺らぎが生じるようになってしまう。

冒頭部分、教会で祈りを捧げる森田が着用し、直後に踏み潰すメガネという小道具と、アレントが『人間の条件』の中で採り上げるガリレオ天体望遠鏡は重なっている。神からの承認に頼れなくなった人間は、内面の自己を承認してくれる、代わりの何かを求めずにはいられない。慢性的な承認欲求にさいなまれる。

そして象徴的に映る、モネの『睡蓮』。

印象派と呼ばれた彼らが制作において重視したのはその名のとおり、個人が抱いた印象、主観であった。思考様式の変化が芸術の分野に対しても多大な影響を与えたことは言うまでも無い。近代の画家たちは徐々に既存の秩序から離れ、自らの主観を重視した制作を行うようになる。しかし、主観を重視すればするほど、できあがる作品の価値を担保する足場は崩れていく。客観性が薄れていく。当然ながら承認は得られにくくなる。印象派の技法によって作られた絵画空間は、主観と客観の力関係が極めて拮抗した場であり、だからこそ、それを背景に森田の遊離は描かれる。

加藤ヒデジンの言葉を読んでみる。人から決めつけられるもの、社会から決めつけられるもの、それらは、自らに押しつけられる「他者からの承認」と括ることができそうだ。しかし、その価値を絶対的なものとして担保してくれる足場はもうどこにもないのだから、そんなあやふやな承認でいくら自分を武装したところで、というより、武装すればするほど、自分という存在は、どんどん不明瞭になっていく。不明瞭な私、私ではない私が暴走する、私ではない私の意思に敷かれる、この私。承認欲求は治まらない。むしろ、それを埋めるために得ようとする新たな承認によって、私がどんどん、蝕まれていく。

『Start over!』の中で描かれる、自らの内面にある自由で主体的な自分を発見して高揚感を覚える人間。しかしそれは同時に、満たされることのない承認欲求という呪いを抱え込んでしまう。この呪いを根本的なかたちで解くことはできるのか。そして、それがもし、できないとしたら、私たちはどのようにして、この呪いと向き合っていけば良いのか。

櫻坂46の「第二章」、アイデンティティに関する問題を、やり直す。それは作品の中であらためて描かれていく問題であると同時に、グループの在り方そのものの問題でもある。櫻坂46とは。「櫻坂46らしさ」とは。

 

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こうして三部作の最後、8thシングル表題曲『何歳の頃に戻りたいのか?』にたどり着く。作品の中で描かれるもの。それを表現する櫻坂46の。それは一体、どのようなものなのか。そこから何を、読めるのか。

 

8thシングル表題曲『何歳の頃に戻りたいのか?』。そのMVにおいて描かれる世界は、主人公の山﨑を震源とした、極めてポジティブに見える色味の変化で溢れている。

屋外の飲食店。主体性に欠ける複製的なウェイターの集団と、それに冷ややかな視線を向ける客たち。後者の服装は差異こそあれど似通っており、そういう意味ではどちらも複製的だと捉えられる。その中で唯一固有の色を示す山﨑は、ウェイターたちの方へと走り寄り、自らの踊りを見せつける。導かれるウェイターと、それに触発されて動を示す客たち。

舞台は室内のレストランに移る。先ほどのウェイターの衣装に身を包んだ山﨑が一人、他のウェイターや客たちの中心で踊っている。ウェイターと客、それぞれ一人ずつの腕を掴んで、舞台に引っ張り上げる。見つめ合うウェイターと客。初めは敵対するように、直後、呼応するようにパフォーマンスが行われる。それを見ながら得意気な表情を浮かべる山﨑。衣装はすでに、固有の色を示すもの(それでいて、先ほどとは違うもの)に変化している。そして自分も、と言わんばかりに立ち上がり、場のすべての人間を巻き込んで踊り出す。みな、充実感に満ち溢れ、自由に体を動かしている。その中心にいる山﨑は至福の顔付きで床に寝ころび、その後、担ぎ上げられる。

最後。舞台は再び屋外に戻り、室内でのシーンと同様にすべての人間によるパフォーマンスが行われる。中心にはやはり山﨑がいる。表情の方向性も変わらない。しかし決定的に違う部分もあり、これはある意味で最も注目すべき点かもしれない。それは、すべての人間の動きが綺麗に揃い、整っているということだ。そして、すべての人間が楽しげで、輝いている。

これらのシークエンスを挟むように、バーに一人座る山﨑のカットが提示される。

加藤ヒデジンによれば、『何歳の頃に戻りたいのか?』のMVは「自分は何色にも染まれる同調の支配」であり「締めは救済」であるらしい。『Start over!』からの流れで「利己から利他になっていって」いるらしい。 不自然さを感じる妙な言葉選びがされているように感じられるため、あらためてMVを振り返りながら、これらをひとつずつ捉えていきたい。

何色にも染まれる。

これは非常に分かりやすい。主人公の山﨑は、その身を包む衣装からして明らかなように、他とは別枠の存在としての確固たる地位を与えられている。山﨑は固有の色を示す存在として、それも、無数の固有の色を示せる存在として世界に立っている。複製的なウェイターにも、なることができる。

同調の支配。

何色にも染まれる山﨑の手によって、世界は充実感溢れるものに変化していく。なるほど、悪く聞こえる言葉選びにはなってしまうが、山﨑が周囲の人間を山﨑自身への同調の方へと(意識的にではおそらく無いにせよ)導いており、それを山﨑による、場全体の支配、という言葉で表すことは可能と言える。

締めは救済で。

終盤において、中盤からの変化をもって明確に描かれている、同調によって(=自らの立ち位置が確保されて)充実感に溢れる人間たち。その中心で悦に入る山﨑。確かに、救済という言葉は相応しいのかもしれない。

利己から利他に。

そして最後に、山﨑が利他の行動原理で動いているという捉え方がなされている。利他の行動原理によって救済の手を差し伸べる山﨑。利己的な自由を妄想する『Start over!』から、利他の行動で実際の自由を獲得する『何歳の頃に戻りたいのか?』へ。

 

なにやら雲行きが怪しいのではないか。

『何歳の頃に戻りたいのか?』のMVは一見、非常に前向きでポジティブな印象を与えてくれる。描かれているもののひとつひとつの表面は輝きに満ち溢れている。ところが、このように監督の言葉をひとつずつ捉えながら、そこで行われている事柄を読み進めていくとき、そこからは意外にも、ぞくりとするような概念が想起されるようになっていく。

大衆社会。カリスマ的リーダーの称揚。全体主義。例えば、こういった言葉で表すことができる概念が頭によぎる。もちろん、これらの概念を軸にして『何歳の頃に戻りたいのか?』のMVが制作されているのである、などと声高に主張するつもりは毛頭ない。繰り返すが、監督の言葉をひとつずつ捉えながらMVを読み進めていくとき、こういった概念が想起されるようになる、とだけ、言いたいのだ。そして実のところ、これは、まったくもって突飛な発想ではない。

アイデンティティに関する問題にフォーカスして『何歳の頃に戻りたいのか?』という作品を、『Start over!』からの流れで捉えようとするとき、つまり、自らの内面にある自由で主体的な自分を発見し、高揚感を覚えると同時に承認欲求にさいなまれるようになった人間、それらを構成単位としてできあがる社会の、その先に見えるすがたはどのようなものであるか、といった切り口から『何歳の頃に戻りたいのか?』を捉えようとするとき、こういった概念は予定調和的に顔を覗かせてくる。すでに、実際の人間の歴史が、そのような道のりを辿っているからだ。 

例えば、アレクシ・ド・トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』の中で予言し、フリードリヒ・ニーチェが『ツァラトゥストラはこう語った』の中で物語として描き、オルテガ・イ・ガセットが『大衆の反逆』の中で正面から向き合い、そして、ハンナ・アレントが『全体主義の起源』の中でこの悪夢が現実と化す有様を生々しく残している。

もちろん自分は、それらと櫻坂46の今の在り方がピタリと重なるとは微塵も考えていない。櫻坂46の今が全体主義的であると言いたいわけではまったく無い。しかし、その萌芽を見いだせないわけでは、無い。なるほど、櫻坂46の今に対して自分が薄っすらと抱いている危うさは、おそらく、そういう部分にあるのかもしれない。

ここで『何歳の頃に戻りたいのか?』の歌詞に注目してみる。そこでは、前を向くことを極めてポジティブに捉えている人間が描かれている。

過去に 戻れやしないと知っている
夢を見るなら 先の未来がいい

櫻坂46『何歳の頃に戻りたいのか?』

しかしそれは、過去を否定的に捉え、さらには未来についても深くは考えず、とにかく、前を向いている今、この瞬間を強調する人間でもある。

行き先がどこかなんて 今はどうでもいい 微かなリグレット

櫻坂46『何歳の頃に戻りたいのか?』

近代化に際して既存の枠組みがひとつずつ取り払われ、それによって(平たい言い方にはなるが)社会が発展していくなかで、人間は自らの歴史という枠組み、参照軸をも解体してしまう。

さしあたって私たちの生は、どの生よりも大きく感じられる。(中略)自らをより生であると感じているために、過去に対するすべての尊敬の念、すべての関心を失ってしまったのだ。そのため私たちは、あらゆる古典主義を白紙に戻して、いかなる過去のうちにも模範や規範を認めようとはしない時代に、今ここに至って初めて出会っている。

オルテガ・イ・ガセット(訳:佐々木孝)『大衆の反逆』岩波文庫 P.99

あらゆる価値の判断基準が曖昧になり、自らを規定してくれるもの、拠りどころとなるものが無くなり、それによって翻弄される人間たちによって作られる社会。大衆社会。そして、そこに忍び寄る、甘美な囁きとしての全体主義、数字、新しさ。

してみると、『何歳の頃に戻りたいのか?』は、開き直りの楽曲としても捉えられるようになる。自らの立つ足場、自らの意味や価値、アイデンティティがぐらついているのは仕方がない。だから、前へと進んでいこう。前へ進むために、過去は否定しておこう。とはいえ、行き先が分からない。でも、そんなことはどうでもいい。とにかく前へと進めばいいんだ。過去を否定し、未来を気にせず、今、この瞬間の自分を強調するものの、そのようにして強調される今は、過去と未来から断絶されているために、その意味や価値を支える土台が極めて脆い。かといってそのことには触れず、とにかく前を向いて動いていく。動き続けているかぎり、動き続けていられるかぎり、自らの足元に目を向ける必要は無い。足場が崩れる前に次の足場に飛び移れるのなら、なにも問題無いではないか。 そして「数字」や「新しさ」といった指標はとても分かりやすいから、動くにあたっての差し当たっての指標として簡単に飛びつける。それらが足場を支える役割をも果たすだろう。しかし、当然ながら、それら自体は一面的で、曖昧で、移ろいゆくものであるために、持続性がまったく無い。飛び移った先にある足場は、これまでと同様、極めて脆い。ゆえに新しい「数字」、新しい「新しさ」を常に求め続けることを余儀なくされる。そして、それを糧にして、前へ進み、続けるしかない。脆い足場から脆い足場へ。その繰り返し。

こうして、今、この瞬間の自分を支える意味や価値がどんどん脆くなっていく。拠りどころが無くなっていく。それはの櫻坂46が行う、表現の傾向に繋がる話でもある。確かに、意味への偏重はコンテンツ全体の硬直化を招く。かつてそれによって辛い経験をしているのだから、そこからの離反は望ましい。しかし、それを極度に押し進めようとするのであれば、話は変わってくるだろう。もちろん、今の櫻坂46のスタンスがそちらに振り切っていると言いたいわけでは決して無い。しかし、向いている方向自体は(どちらかと言えば)そちら側なのであり、そして、それは意識的に行われている。

「第二章」における櫻坂46は、ライブ終了直前のMCなどにおいて、コンテンツによって得た活力を糧にして日々の現実を生き抜くよう、ファンに促すことが非常に多い。コンテンツに埋没させるのではなく、現実に引き戻す。自らの立ち位置を、ある意味でファン各々の痛み止め的な立場として強調することが多い。

いや、自分はそれに否定的なわけでもまったく無い。むしろ、エンターテイメントというコンテンツの在り方としては健康的で、良い傾向だと思っている。過去を踏まえても、意味を軽くすることは望ましい。

しかし、意味を軽くしすぎることは、自らの立つ足場、アイデンティティを確保するにあたり、数字や目新しさといった、一面的かつ曖昧で移ろいゆくものへの依存を強めることに繋がらざるをえないのではないか。櫻坂46のに対して自分が危惧しているのは、おそらくそういう部分にある。

そして、慎重に話を進めると、そもそも自分は、今の櫻坂46が立っている足場は、様々な意味や価値によって十二分に堅固なものとして構築されていると感じている。ゆえに、この足場が今後、脆くなっていく可能性に対して、危うさを感じているのだと思う。

メンバーとスタッフさんを信じてやってきて、でも一番は本当にBuddiesの皆さんの応援と支えがあったからこそ、この今がある、ということを本当に伝えたくて。

松田里奈「3rd YEAR ANNIVERSARY LIVE at ZOZO MARINE STADIUM」2023/11/26

キャプテン、松田里奈はこのような話を頻繁に強調する。確かに今、現在の多くのファンは、櫻坂46というコンテンツに対して、各々がそれぞれ、固有の強固な意味や価値を見いだしているように見える。多角的に意味や価値が捉えられ、それらが「櫻坂46らしさ」というひとつの言葉の元に集結している。この分厚い「櫻坂46らしさ」は、コンテンツが立つ足場を堅固にする芯の部分になっている。

この足場は表現を行う側による働きかけのみによって作られるのでは無い。表現を行う側とそれを受け取る側という、双方向からの力によって作られる。だからこそグループが、メンバーが、表現において意味や価値の提示を軽くしたとしても、ファンの受け取り方次第で、この足場はしっかりとしたものになる。

実際、今の櫻坂46が立つ足場は非常に安定している。

ここで補足したいのは、コンテンツの立つ足場が作られるにあたって、表現を行う側と受け取る側の間にある力関係は、前者による積極的な働きかけによって途端に差が生じる傾向にある、ということだ。それは受け取る側の無力化に、そして思考停止や全肯定の道へと容易に繋がってしまう。これは否定のしようがない。かつてあった、コンテンツ全体の硬直化の背景には、このような前提が、多かれ少なかれ、含まれている。

だからこそ、櫻坂46は改名以降、意味や価値の提示を控えるようになり、受け取る側であるファンにそれを委ねる、促す方針を取るようになったのではないか。そしてこの方針からは、グループの、メンバーの、ファンを全面的に信頼する姿勢をも読み取ることができる。

しかし、櫻坂46の「第一章」においてたびたび前景化した軋轢の数々は、その信頼に曇りを生じさせた。ゆえに、表現を受け取る側=ファンに意味や価値を見いだす下地を提供するという程度に、意味や価値の提示を意識的に行った。そのうえで、ファンにそれを委ねる、促すという方針を『Start over!』。やり直した。

櫻坂46の今の多くのファンの内には、この下地がしっかりと根付いているように思う。この下地をもとにして、各々が、適切な距離感で、温度感で、それぞれ固有の強固な意味や価値を積極的に見いだしている。そして櫻坂46の、この、今、現在の状況を、心の底から大切にしようとしている。守ろうとしている。その姿勢がコミュニティの中で共有されている。それはイベントに足を運び、会場の空気に触れれば即座に分かることだ。

この状況は決してアタリマエではない、むしろ奇跡のような状況だ、という認識。過去を振り返れば、それはすぐに分かる。過去の記憶がまだ根強いから、もしくは意味や価値を見いだす下地を与えられる過程でそれを学んでいるから、実際には振り返らずとも分かってしまう。この状況はアタリマエではない。だからそれを大切にしたい。守りたい。

ファンコミュニティの全体で「数字」を回してコンテンツの勢力を広げることに尽力し、それが健康的な盛り上がり方を(現状)見せているのも、おそらくはこのような前提があるからこそのように思う。根底部分でコンテンツに対する姿勢を共有した各々が、適切な距離感で、温度感で、それぞれ固有の強固な意味や価値を積極的に見いだし、それによって多角的に捉えられる「櫻坂46らしさ」という素晴らしさ、この誇らしいグループを、多くの人間に知って欲しい!

とはいえ、このあたりで一旦、慎重になったほうが望ましいようにも思う。「数字」という指標は分かりやすく、効果も極めて大きいために、それは危険でもあるからだ。現代において万人に共有できる意味や価値の指標がもはや、金銭を稼げるか否か、再生回数が多いか少ないか、くらいしか見いだすことが現実的に困難なことからも明らかなように、「数字」という極めて分かりやすい指標の前景化は、その他の指標を容易に包み隠し、さらには、すでに手中に収めている適切な距離感や温度感をも狂わせてしまう。であるならば、この「数字」というものは慎重に取り扱われなければならないのではないか。各々が適切な距離感や温度感を認識したうえで、それぞれ固有の強固な意味や価値を積極的に見いだし、しっかりと足場を固め、それを「数字」という分かりやすい指標でブーストすることで勢力図を拡大している現状について、自分は良さを感じる。しかし、それらが今後、崩れていく可能性が少なくないとしたら?

各々が適切な距離感や温度感を認識したうえで、それぞれ固有の強固な意味や価値を積極的に見いだしたり、コンテンツ全体を大切にしようとしたりする姿勢は非常に重要であると思う。しかし「数字」という指標や、それによって増えた多数の新しいファンの存在は、この状況に、大きく揺さぶりをかける。

まずは前者。

繰り返しになるが「数字」にはすべてを包み込んでしまう魔力がある。そのくせしてそれは、一面的かつ曖昧で、そして移ろいゆく、という厄介な性質を併せ持つ。ゆえに、現在、適切な距離感や温度感を認識した各々によって見いだされているそれぞれ固有の強固な意味や価値が、徐々に「数字」へと置き換わっていく未来が、もしくは、「数字」の魔力によって適切な距離感や温度感が狂ってしまい、意味付けや価値付けに伴う暴力性が前面に露呈してしまう未来が、容易に想像できてしまう。現実の歴史は無慈悲にそれを、裏打ちする。

もしかしたら、私たちはすでに、その未来に足を踏み入れているのかもしれない。新しいMVが投稿されるに際して、即、再生回数を伸ばすことについてのロビー活動が声高に行われ、それが大量に拡散され、実行され、結果として「数字」の話題がタイムラインの主流になる、という、今やお決まりの潮流について、自分はその重要性を認識すると同時に、ある種の寂しさ、虚しさ、そして恐れを感じてしまう。

続いて後者。

もちろん、新規のファンの存在そのものを悪いと言いたいのでは決して無い、ということをあらかじめ強調したうえで話を進めていくが、新しく増えた多数のファンは、自らの内にコンテンツとの時間の積み重ねが少なく、コンテンツ自体が持つ歴史、それによって醸成された・されている空気感、文化のようなものについても、ほぼ知らない状態にある。したがって、彼ら、彼女らは、それぞれ固有の強固な意味や価値を積極的に見いだす姿勢を取るために必要な下地、適切な距離感や温度感を、当然ながら所持していない。この状況がアタリマエではないという認識も無いために、それを意識的に大切にしようとする感覚も、持ちようがない。

だから、今、このタイミングにおいて極めて重要なのは、あらためて、今の足場をしっかりと固めることのように思える。櫻坂46は今、極めて調子が良い。過去を捉え、進むべき未来を考え、その間にあるを固める必要など、一見、まったく不要だと思えてしまう。調子が良いんだから、何も気にせず、前を向いて、動き続ければ良いじゃないか。私たちなら大丈夫!!

しかしそれは、下地のあるファンが多数派であるという前提に基づいた、極めて危うい発想ではないか。改名から菅井友香卒業までの「第一章」と、その流れの先にある今、現在の大きな違いは、コンテンツ全体が大きく広がり、新しいファンが増え、そしてその内側で「数字」の持つ圧倒的な力が共有された、という点にある。

であるならば、グループが『何歳の頃に戻りたいのか?』を高らかに歌い上げ、それをファンが素朴に捉え、称揚し、全体として充実感に満ち溢れている、勢いづいている今、というこの状況、しょうもないファンのしょうもない質問に対する、これまたしょうもない演者本人の一言とそれを検閲で弾かなかった運営のしょうもなさによって、『静寂の暴力』の賞味期限が一瞬にして切れ、単なるマスゲームへと陳腐化してしまった今、というこの状況は、むしろ、これまでの中で一番、危ういのかもしれない。

 

『何歳の頃に戻りたいのか?』は、そのライブパフォーマンスにおいて山﨑天が一人きりでポーズを決めるという終わり方が設定されている。他のメンバーは全員、左右に捌ける。どうして一人きりなのだろう、という疑問が浮かぶ。激しいダンスを終え、呼吸の荒い音が聞こえる。凛として立つ、というよりは、なんとか静止している、という感じがする。自分はそれを見るたびに、うっすらと不安を感じてしまう。

 

~~

最後に、グループのこれからについても少しだけ考えてみたい。先日、9thシングルの発売が発表され、その表題曲のタイトルは『自業自得』であった。

産業革命と市民革命。社会の枠組みが瓦解していく中で、個人主義の社会ができあがる。しかし、そこで想定された自由で主体的な個人、剥き出しの個人は強い不安にさいなまれ、たちまち、その在り方は大衆へと変わっていく。農村から都市へ。大衆社会の成立。イデオロギーの乱立。忍び寄る全体主義。数多の戦争。そして、世界全体を包み込むことになる資本主義。それを加速させる新自由主義的な経済政策。人間の原子化はさらに加速していく。資本主義は確かに大きな発展をもたらすが、その代償が極めて甚大であることは言うまでも無い。しかし、大きな発展の過程にあるとき、自らが立つ足場の状態を気にする必要は無い。前へ進めばいいのだから。そして、実際に、前へ進めているのだから。

では、前に進めなくなったら?

そのときに気づく。自らの立つ足場が極めて脆くなっていることに。問題を社会全体で解決できるような余裕はもはや無い。あらゆる問題は個人の問題へと巧みにすり替えられる。声高に「自己責任論」が語られる。すべては「自業自得」であると。

そういう今に、私たちは生きている。自業自得だと社会から非難される個人。自業自得だと自らを非難する以外の選択肢が無いことを自明視してしまう個人。

糸口。諦念。離反。

アイデンティティに関する問題は、やはり続いていきそうだ。そしてそれは櫻坂46の未来を映す、かもしれないし、そうではないかもしれない。おそらく、来たる東京ドーム公演が『自業自得』の初披露の舞台になるだろう。半年ほど抱えていた何かをなんとか掴むことができた今なら、それを、落ち着いた姿勢で捉えることができる、かもしれない。

 

私的、櫻坂46史。03

2023年11月29日にnoteで公開した記事をサルベージして再編集。

二年目の櫻坂46の活動に関する話、「2nd TOUR 2022“As you know?”」に関する話、菅井友香卒業に関する話に触れられるようになるまでに、ほぼ一年という期間を要したらしい。それらを踏まえたうえで、三周年を記念するライブ「3rd YEAR ANNIVERSARY LIVE」に着地している。

それだけ三年目の活動が目まぐるしかった、ということでもあるので、その間に公開したいくつかの記事についても、いずれは回収しておきたい。

 

~~

2022年11月8~9日開催「2nd TOUR 2022“As you know?”」ファイナル、東京ドーム公演2Days。自分としてはやはり、話をそこから始めなければ、と思う。

菅井友香が櫻坂46のキャプテンとして立った最後の舞台。チケットの表記は確かにSOLD OUTだった。が、アリーナ席は極めて密度が低い配置で構成されており、スタンド席には暗幕が目立っていた。その時点での櫻坂46の立ち位置が如実に表れていた。

客足の減少はそれまでの地方公演からして明らかだった。ファンクラブで申し込んだチケットはすべて当選、当日券が出る公演がほとんどで、一年目と同じ会場で行われた福岡公演にいたっては、ブロックが丸々ひとつ、消滅していた。だから、菅井友香の卒業曲『その日まで』のMVが初公開されたあの瞬間を、あのとき、あの場所にいたファンだけで共有できたことの意味合いは、今になっても大きい。

 

それを経ての東京ドーム。その一日目。

本編を〆る楽曲『摩擦係数』が終了した直後、会場全体が「緑」に包まれた。

そしてアンコールが明け、菅井友香の卒業セレモニーが始まった。

欅坂46の『Overture』が流れると同時に、大多数の観客の内で湧き上がった「何か」が放出され、それがどよめきとなった。会場が揺れた。

一曲目『10月のプールに飛び込んだ』のイントロが流れ出したそのとき、誰かの嗚咽、むせび泣く声をマイクが拾っていた。そのマイクはすぐに電源を落とされた。曲中、森田ひかるはステージ上にいなかった。

二日目。本編後半、『Buddies』二番の冒頭、各々が自由にポーズを決める箇所で、藤吉夏鈴は頭を下げ、その前で手を組み、観客側に向けて祈りを捧げていた。

 

2022年、櫻坂46はこれまで毎年参加できていた紅白歌合戦に、初めて落選した。

2022年12月8~9日開催「2nd YEAR ANNIVERSARY ~Buddies感謝祭〜」。

この年のアニバーサリーは所謂、ファンミーティングのような形式で開催された。そこでは、クリエイティブ面を中心に、櫻坂46において多岐にわたる役割を担うTAKAHIRO自らがステージに立ち、自身が組み立てるパフォーマンスを軸に、楽曲の解説、言語化を行う時間が設けられた。選ばれた楽曲は、1stアルバム「As you know?」の収録曲にして、改名以降、初めてナスカが作曲を担当した楽曲『条件反射で泣けてくる』と、デビュー曲の『Nobody's fault』だった。

今までの欅坂というグループだったら最後、みんなから背を向けて、奥の世界に入っていく。でも、そこから前を向いて未来を指していく。そこが新しい櫻坂のみんなから感じる魅力です。

そして、これからのその未来を作っていくのは、本当に、メンバーのみなさんと、本当に思うのは、ここにいるBuddiesのみなさんだと、本当に思っています。なので、Buddiesのみなさんが、これがいい、こうなんだ、こうなんだ、と思ったら、その方向にメンバーは導かれていくし、メンバーもそれと呼応して、私たちはこっちに向かっていくんだと、全部のストーリーを変えられる。ストーリーを作っていくのは、本当に、みんな次第。過去は必ずある、今も変わらない、今も今日はある。でも、明日はみんなの手で変えられる。

それをするための今日だ。それをするための今のみんなの集まりなんだよ。なので、今がすごく大事。この瞬間、すごく大事です。今日はこの場所に居させていただいてありがとうございます。一緒に櫻坂を応援していきましょう。

TAKAHIRO「2nd YEAR ANNIVERSARY ~Buddies感謝祭〜」(2022/12/8)

ひとつひとつの振りは、全部、実は与えられたものじゃなくて、メンバーが作っていく世界です。そして、今回こうやって振りの内容をお話していますが、振り付けは生きています。実はこれは初めのかたちだけであって、メンバーがどんどん変えていってくれる。

たぶんライブに来ると、「あれ?この前とちょっと違う」。生きているんですよ。だから、面白い。だから、僕が話しても、メンバーがきっと成長させてくれるから、ここでそこにならない。ここが始まりになる。

あぁそこからどう変わっていくんだろう、って作ってくれるのがメンバーで、それを一緒に盛り上げて、一緒にかたちを作っていってくれるのがBuddiesのみなさん。だからこそ、ライブが面白い。だからこそ、僕は、ずっと見ていたい。一緒に応援していきましょう。これからもよろしくお願いします。

TAKAHIRO「2nd YEAR ANNIVERSARY ~Buddies感謝祭〜」(2022/12/9)

 

そして、年が明けた。2023年は三期生の加入と、彼女たちを交えたうえでのリリースとなった5thシングル『桜月』、それを引っ提げて回る(グループ史上初となる)春開催のライブツアーから始まった。

三期生の加入について。

新年早々、1月5日のティザー映像の公開に始まり、個人Vlog、ドキュメンタリー映像、未公開メンバーの満を持しての発表と、3月4~5日開催「櫻坂46三期生おもてなし会」に至るまでの話題を絶やさないような、そして、観客側の意識を涵養するような綿密なプロモーションが組まれていた。

5thシングル『桜月』および、「3rd TOUR 2023」について。

5thシングル『桜月』の発売が2月15日。ツアーの期間が4月12日~6月1日。新キャプテン、松田里奈体制による初の制作であり、初のライブツアーである。

MV付きの楽曲のセンターに、そしてツアーにおける最重要のポジションに抜擢されたのは守屋麗奈と大園玲。言わずもがな、どちらも研修生としての活動を経て、遅れて配属先が決まったメンバーだ。ツアー本編は大園玲がセンターを務める『Cool』で始まり、守屋麗奈がセンターを務める『桜月』で幕を閉じる。

4月13日、東京公演Day2にて、11月25~26日「3rd YEAR ANNIVERSARY LIVE」をZOZOマリンスタジアムにて開催することが発表された。(と同時に、今年は「W-KEYAKI FES.」を行わないことも発表された)。

4月30日、福岡公演Day2にて、二期生の関有美子が卒業した。

5月23日、神奈川公演Day1にて、6thシングルのティザー映像が流れた。

5月24日、神奈川公演Day2にて、突如『BAN』に三期生が合流した。なお、会場である「ぴあアリーナMM」は、その、およそ三か月前に「櫻坂46三期生おもてなし会」が行われた場所であり、そこで三期生単独による『BAN』が披露されていた。

5月30日、Youtubeにて、6thシングル表題曲『Start over!』のMVがプレミア公開というかたちで公開された。一期生と二期生全員が参加する初めての表題曲で(活動を休止していた遠藤光莉を除く)、そのセンターに選ばれたのは藤吉夏鈴だった。

6月1日、彼女の出身地である大阪にて開催された、ツアーの最終公演が『Start over!』初披露の舞台となった。

6月28日、6thシングル「Start over!」が発売された。特典映像には「2nd YEAR ANNIVERSARY ~Buddies感謝祭〜」と「櫻坂46三期生おもてなし会」の映像が早々に収録されており、先ほど引用したTAKAHIROによる解説は、本商品を購入することで後追いできた。また、三期生の物語もこのタイミングで読み返すことができた。

 

2023年の夏。櫻坂46は新曲『Start over!』を最大の武器としながら、様々な舞台に乗り込み、数多くのライブを行った。ファッションイベント、夏フェス、そして海外。パリとマレーシアへ。中には三期生が単独で乗り込む機会も設けられていた。

7月15日「Japan Expo Paris 2023 Sakurazaka46: Showcase」

7月23日「OSAKA GIGANTIC MUSIC FESTIVAL 2023」

8月7日「IDOL RUNWAY COLLECTION Supported by TGC

8月12日「ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2023」

8月19日「Japan Expo Malaysia 2023 / Sakurazaka46 First Live in Malaysia」

8月27日「ラヴィット!ロック2023」

9月30日「Rakuten GirlsAward 2023 AUTUMN/WINTER」

また、それと同時に、グループ初の展覧会「新せ界」が開催された。展示の中心は企画書や絵コンテといったクリエイティブ面の裏側で、メンバーひとりひとりが抱く今後のヴィジョンを展示する区画も用意されていた。

フェスのようなアウェーの場所でもっと戦ってみたい。心が折れるのかもしれないけどそういう場所にもチャンスが転がっていると思う。

田村保乃「新せ界」

個人としてやりたいこと、と聞かれると今は考えていない。みんなと一緒に並んで歩いていきたいだけで。

森田ひかる「新せ界」

いつか自分たちの本当の力で東京ドームに立ちたい。

守屋麗奈「新せ界」

 

ところで、この期間の裏側では新たな制作が行われていた。

10月18日、7thシングル『承認欲求』発売。

本シングルでは選抜制度が復活すると同時に、三期生が本格的に一期生二期生と合流した。表題曲『承認欲求』のセンターは森田ひかる。フロントには三期生の谷口愛季、山下瞳月が抜擢されており、さらには中嶋優月、村井優の二人も選抜入りを果たしている。そして、特典映像には「3rd TOUR 2023」が早くも収録。最新シングルを購入するだけで、最新のライブを(一部カットされているとはいえ)摂取することができた。

また、三期生の活動機会に関しては、表題曲に選抜された上記四名に限らず、非常に手厚い。11月より、乃木坂46五期生、櫻坂46三期生、日向坂46四期生が単独公演をそれぞれ十公演ずつ披露する企画「新参者 LIVE at THEATER MILANO-Za」が行われた、今も行われている。

その他、数多くの活動があり、こうして「3rd YEAR ANNIVERSARY LIVE」にたどり着く。

極寒のZOZOマリンスタジアム

蓋を開けてみれば、それは正真正銘の満員だった。

一年前、東京ドームで見たあの光景が想起された。

あれからの一年。

一期生、土生瑞穂は自信げに卒業していった。

活動を休止していた遠藤光莉が復帰した。

 

ライブの直前、11月13日。紅白歌合戦の出場歌手が発表された。

そこには櫻坂46の名前があった。

あれからの一年。

 

それにしても、それにしても、がすぎるのではないか。メンバーの活動、制作に携わる人間の活動、運営に携わる人間の活動、ファンの活動、すべてが上手く行き過ぎているように思った。いまだに現実感が湧いてこない。ずっと夢の中にいるような、そんな感じがずっと続いている。本当に、この、2023年という年はなんだったのか。

それは一時の狂乱に過ぎないのかもしれない。いや、そうでないのかもしれない。仮に狂乱だとしても、それが狂乱のまま持続し続けるのかもしれない。もしかしたら、狂乱すらも支配してしまうのかもしれない。そのとき狂乱は狂乱で無くなるのかもしれない。しかし、もちろん、そうでないのかもしれない。

そういう意味では少し、心配しているところがある。自分としては、また、危うさが訪れないことを、祈るしかない。

 

 

私的、櫻坂46史。02

2022年11月13日にnoteで公開した記事をサルベージして再編集。

改名して、再始動してからのグループの一年間を、自らのグループに対する心持ちや見方の変化などと絡めながら、振り返っている。

 

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櫻坂46としてのデビューシングル、その表題曲『Nobody's fault』。この楽曲を初めて聴いたときの印象はあまり良くない。当時の自分は、歌詞の内容をうまく呑み込むことができなかった。

欅坂46としての『THE LAST LIVE』。そのエンドロールの最後に流れた「Total Producer 秋元康」の文字列を眺めながら、次はちゃんとしてくれよなぁ、なんて無責任なことを思いつつ、余韻を味わっていたのもつかの間のこと。その楽曲は唐突に、披露された。

No! No!No! 他人(ひと)のせいにするな
鏡に映ったおまえは誰だ?
勝手に絶望してるのは
信念がないからだってもう気づけ!

櫻坂46『Nobody's fault』

あのときは前回の記事の着地点であるアタリマエがアタリマエでは無かったから、このタイミングでそんな歌詞を歌わせるなんて、ついに運営は開き直ったのか?と思えてしまった。曲調やパフォーマンス自体は好みだったが、改名の原因をすべて運営に押し付けていた以上、紡がれていく言葉を消化するよりも不信感や抵抗が勝ってしまい、この認識が変化していくまでは、残念ながら、気分がイマイチ、上がらなかった。

さて、改名後は制作体制が大きく変わり、それによってインターネット上では日々、さまざまな学級会が開かれていたが、自分においてはそれについての抵抗はあまり無かったように記憶している。

ひとつのシングルの中にMV付きの楽曲を(表題曲を含めて)三曲用意し、それぞれ、別のメンバーがセンターを担う。フォーメーションの前方二列、八人を固定して(「櫻エイト」と呼称)、三列目のメンバーを曲ごとに入れ替える、というやや特殊な選抜システム。全員選抜では納まりが悪い人数帯になったから選抜システムを採用、欅坂時代の反省を活かして、センターを務めるメンバーを分散させ、とはいえグループの軸は明確にしたいからと、フォーメーションの前八人を固定させる。無難な落としどころのように思えた。

・『Nobody's fault』(センター、森田ひかる MVあり)
・『最終の地下鉄に乗って』(センター、森田ひかる)
・『ブルームーンキス』(センター、森田ひかる)
・『なぜ 恋をしてこなかったんだろう』(センター、藤吉夏鈴 MVあり)
・『Plastic regret』(センター、藤吉夏鈴)
・『Buddies』(センター、山﨑天 MVあり)
・『半信半疑』(センター、山﨑天)

これが2020年12月9日発売、1stシングル『Nobody's fault』の全体構成で、当時はまだケヤカス(欅坂46オタクの蔑称)だったから、端的に困惑してしまったのを今でもはっきり覚えている。恋愛賛歌と仲間賛歌。初見で唯一ピンときた『最終の地下鉄に乗って』については、そのセンターを務める森田ひかるが「欅坂が好きだった人は気に入ると思う」的なことを、どこかで話していた。

なるほど。こちらの心持ちや見方を変えていかなければならないんだな、それが試されている1stシングルなんだな、といったようなことを、その発売日の前夜に行われた「櫻坂46 デビューカウントダウンライブ!!」(無観客公演。全国の映画館でライブビューイングが行われた)を観ながら感じていた。

 

続いて、2021年4月14日発売の2ndシングル『BAN』。

1stシングルの発売から半年弱が経ち、リリースされた合計14の楽曲を踏まえて、自分においてはようやく「欅坂46らしさ」という幻想が薄れてきた時期になる。このグループは今、積極的に、様々な方向性の楽曲に手を伸ばしている時期なんだ、という気づき。なぜか。それは「欅坂46らしさ」に縛られてしまった欅坂46の二の舞になるのを防ぐため、そしてなによりも、可能性を模索するためで間違いない。

前回の記事で書いた内容のおおよそは、このあたりの時期に考えていたはず。だから、可能なかぎり、イベントに足を運んだ。

6月16~18日の三日間にかけて開催された、三列目のメンバーのみで行うライブ「BACKS LIVE!!」と、7月9~11日の三日間にかけて開催された、全員参加かつ日向坂46との合同ライブ「W-KEYAKI FES.2021」。感染症対策によるイベント制限の影響により、1stシングルの発売から半年以上経ってようやく実現した、有観客のライブ。

彼女たちは過去に披露してきた欅坂46名義の楽曲すべてを封印し、櫻坂46名義の楽曲だけでライブを行った。

ゆえに「W-KEYAKI FES.2021」1日目、櫻坂46による単独公演は鬼門だった。曲数が少ないから、普通にパフォーマンスしてしまえば尺が持たない。また、「櫻エイト」というシステムを用いたフォーメーションの楽曲がほとんど(ユニット曲は一曲も無く、全体曲も『櫻坂の詩』のみ)、というのも大きな問題だった。広い会場(コニファーフォレスト)での公演である以上、複数個所に設営されたステージをまんべんなく使用する必要がある、つまり、楽曲ごとに会場内を大きく移動する必要がある、しかし、パフォーマンスの軸である「櫻エイト」はすべての楽曲に参加するので、楽曲の最中に次の楽曲のメンバーが別のステージの裏に移動、待機しておいて……といった方法も取りにくい。

結果、尺の問題と移動の問題は、ほぼすべての楽曲の間にダンストラックを挟む、という荒業で乗り切ることになった。

このライブは櫻坂46としてメンバー全員で行う、初の有観客ライブだったことから、メンバーの気迫は十二分。手元にある櫻坂46名義の楽曲すべてを使い、できる限りのパフォーマンスが行われた。都合上、どうしてもちぐはぐなライブ構成にはなってしまう。それでもなんとか、今ある手札で最大限のものを作り上げよう、という力強さ。

『Buddies』の曲中に差し込まれた山﨑天の演説は今でもはっきりと覚えている。

この日からファンの呼称が「Buddies」になった。

 

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こうしてグループの方針についての消化が自分なりにでき、心持ちも切り替わったとなれば、楽曲やパフォーマンスに対する解像度もぐっと上がってくる。したがって、本筋から少し脱線することにはなるものの、このあたりの時期に感じていた1st、2ndシングルに収録された楽曲についての印象や、それぞれのセンターを務めていた三人についての話を少しだけ書き残しておきたい。

 

まずはじめに、藤吉夏鈴。

可能性の模索、という側面において、『なぜ 恋をしてこなかったんだろう』が1stシングルの三本柱の一角として用意され、そのセンターに藤吉夏鈴が抜擢された、というのは非常に重要なポイントだと思う。彼女は2ndシングルでも『偶然の答え』のセンターを担当し、恋愛ドラマ仕立てのMVの主人公を見事に演じきり、その後、演技に関する数々の外仕事を掴むに至る。

『なぜ 恋をしてこなかったんだろう』は端的な恋愛讃歌として捉えるよりも、もっと大きな枠組みの楽曲として捉えるほうがしっくりくる。

幸せは 参加すること

櫻坂46『なぜ 恋をしてこなかったんだろう』

たくさんのロープに絡められ、左右に揺さぶられる(笑顔の)藤吉夏鈴。螺旋階段という舞台装置。少しずらした言葉選びの数々。社会を否定することで個を守ろうとする「欅坂46らしさ」からの離別を、それらから読むことはあまりにも容易いはずだ。

そのセンターに藤吉夏鈴を宛がう、という采配。そして彼女は、今、まさに『なぜ 恋をしてこなかったんだろう』を体現しているかのような伸び伸びとした振る舞いで私たちを魅了している。「なぜ、この楽曲のセンターが私なのかを考えた。楽曲を自分なりに解釈して納得した。その解釈を自分では言わないから、各々、考えてみてほしい(意訳)」どのメディアでの発言かは失念してしまったが、そんなことを言っていたのも印象深い。

続いて、山﨑天。

本グループにおける最年少のメンバー。このタイミングではまだ、中学三年生~高校一年生。そんな彼女に宛がわれたのが『Buddies』という直球の仲間讃歌であり、『思ったよりも寂しくない』という別れの楽曲であり、そして、斜に構えた恋愛観を歌う楽曲である、ということ。この采配に『二人セゾン』の頃までの欅坂46を感じるのは自分だけだろうか。「欅坂46らしさ」ができあがる以前の欅坂46欅坂46が当初、やろうとしていたであろうことが、今、彼女に託されている、ような、感じがする。

現在、高校二年生になった山﨑天は日々、分かりやすく、自己肯定感に満ち溢れた様を私たちに振りまいている。そのひとつの要因として櫻坂46(欅坂46)が紡ぐ幅広い言葉の数々があるのは間違いないだろう。

言葉にできないものは、端的に感じられこそできても、それを制御することはできない。当然、他者に伝達することもできない。ゆえに、言葉は理解可能なかたちとしての共通世界を現出させる。自らが立つ舞台への理解が自身の居心地の良さに繋がり、それが自己肯定感の高さとして表れている、というのは自然な流れではないか。

ただし、もちろんそれは、彼女自身がそれらの言葉の数々を十全に消化し、自らのものにできているからこそでもあるはずで(そうでなければ、途端に言葉の幻想に飲み込まれてしまうだろう)、だからこそ、彼女はグループの中心を担うに相応しい存在なのだ。

そして最後、森田ひかるについて。

櫻坂46の三本柱、その中でも軸の部分を担う彼女は、所謂「憑依型」とは正反対のやり方で、常に圧巻のパフォーマンスを表出している。『Nobody's fault』、『BAN』、『最終の地下鉄に乗って』、『ブルームーンキス』、『君と僕と洗濯物』、毛色の異なる楽曲の数々を手中に収めて、それを自在にコントロールしている。それが、できている。

良い意味でも悪い意味でも、「子ども」の立場から物事を表現していた欅坂46。時は流れて、彼女たち自身が、あのときの敵であった「大人」の領域に実際に足を踏み入れ始めている状況、としての、今、『BAN』と『最終の地下鉄に乗って』を、そのようなやり方で表現する彼女が、このグループの軸であるということ。それでいて、だからこそ、『ブルームーンキス』と『君と僕と洗濯物』を(もちろん良い意味で)そつなくこなし、そして同時に、『Nobody's fault』を提示できる。

ほかにそれが務まる人物なんて、いるだろうか……

 

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話を戻そう。「BACKS LIVE!!」と「W-KEYAKI FES.2021」を経て、自らの櫻坂46への傾倒が著しくなった、まさにそのようなタイミングで迎えたのが「1st TOUR 2021」、そして3rdシングル『流れ弾』の発売となる。

・福岡 9/11(土) 9/12(日) 西日本総合展示場 新館
・愛知 9/19(日) 9/20(月・祝) Aichi Sky Expo ホールA
・大阪 10/9(土) 10/10(日) 丸善インテックアリーナ
・埼玉 10/29(金) 10/30(土) 10/31(日) さいたまスーパーアリーナ

3rdシングル『流れ弾』の発売日は10月13日。ツアーに先立つ8月24日のラジオ「レコメン!」にて表題曲『流れ弾』の音源が公開、9月5日のラジオ「櫻坂46 こちら有楽町星空放送局」にてカップリング曲『Dead end』の音源が公開。つまり「W-KEYAKI FES.2021」以降の追加要素はこの2曲のみ、という状態で「1st TOUR 2021」はスタートした。

だから、依然、今ある手札のすべてを使ってなんとか形にしていくライブであったことに変わりはない。

しかし、9月13日のラジオ「さくらひなたロッチの伸びしろラジオ」の中で音源が公開された『無言の宇宙』が、大阪公演からセットリストに追加され、発売後の埼玉公演では『ソニア』もセットリスト入りをする。ツアー期間中のラジオで音源が初公開されたり、ライブ終演後にMVが初披露されたりと、徐々に情報が増えていき、それらがセットリストにも反映されていく、という流れが新鮮で、とても楽しい期間だった。

・『流れ弾』(センター、田村保乃 MVあり)
・『Dead end』(センター、森田ひかる MVあり)
・『無言の宇宙』(センター、渡邉理佐 MVあり)
・『ソニア』(三列目メンバー曲)
・『美しきNervous』(表題曲メンバー曲)
・『ジャマイカビール』(遠藤光莉 小林由依 藤吉夏鈴)
・『On my way』(井上梨名 松田里奈)

なお、3rdシングル『流れ弾』の全体構成がこちら。三列目メンバーの楽曲やユニット曲が収録されたことでようやく手札の色が増えて、面白さがぐっと増した。

 

そして一年間の集大成、12月9~10日開催「1st YEAR ANNIVERSARY LIVE」。ツアーの途中で一期生の守屋茜渡辺梨加が卒業を発表しており、このライブにはその二人の卒業セレモニーが内包されていた。メンバーの卒業自体は欅坂46時代にもそれなりにあったが、こういった催しはグループ結成以来、初となる。欅坂46のときには無かった(できなかった?)催しが櫻坂46になってできるようになったというのは、やはり感慨深い。

メンバーに、ファンに、見守られながら、煌びやかなドレスに身を包んだ二人は、円満なかたちで舞台を降りていった。

また、ライブの内容については、満足度がとにかく高かったことを鮮明に覚えている。3rdシングルの楽曲たちが全体の彩りを華やかにしてくれるので楽しいったりゃありゃしない。二日間で一部の楽曲を差し替える、なんてこともようやくできるようになった。ここまでが、本当に、長かった。(正直、櫻エイトのシステムはすでにマンネリ化していた。)

 

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最後に『Nobody's fault』の話をしておきたい。自分はこの「1st YEAR ANNIVERSARY LIVE」の『Nobody's fault』で衝撃的な体験をしたのだ。

前提の確認から始めよう。

冒頭で記したように、自分はこの楽曲に対して最初に抱いた印象があまり良くない。それはあのとき、「グループが改名するまでに至った原因のすべては運営の問題である」という認識が自分の中に確固としてあり、そんな運営の大元締めたる秋元康がこの歌詞を書き、それをメンバーに歌わせるというのは、開き直りではないか?と感じたからだ。

それから数か月が経ち、前回の記事で書いたような考え方をするようになり、「罪悪感」のようなものを抱くようにもなる。それに対する責任としてこの一年間、櫻坂46を見続けてきた、なんてワケではもちろん無いが、とはいえ、うっすらとそういう、義務感のようなものが自分の内にあったのは事実として否定できない。

そろそろ『Nobody's fault』について色々と考えてみよう、という気分になったのは「W-KEYAKI FES.2021」を経てからになる。前述のとおり、このライブを観た自分は櫻坂46というグループの気迫を存分に浴びて、彼女たちのこれからについての期待に大きく胸を膨らませることになった。とても良いライブ体験だった。

が、インターネット上ではあまり好ましくない反応が散見された。

取って付けた感がある、物足りない、欅坂の曲を聞きたかった、など。前二つのような意見に関してはシカタナイ部分がある(とはいえ、だからこそ、それは言わない約束では?とも思うが……)。しかし三つ目の「欅坂の曲を聞きたかった」というリアクション。これは本当に良くない、それだけはメンバーに伝わるかたちで言ってはいけない、ネット上に書いてはいけない。実際、この反応はメンバーたちにも届いてしまい、数人からは「今の櫻坂46を見てくれていない。悔しい。」的な表明が提出されるまでに至った。

心機一転、リスタートして、新しい坂道を登り始めたメンバーたちと、過去に縛られたままのファン。この歪んだ構造は記事を書いている「今」になっても変わっておらず、櫻坂46の根っこの部分に存在していて、それが時折、顕在化してしまう。

なぜこんなことを書いているのか。それが数か月後の「1st YEAR ANNIVERSARY LIVE」における『Nobody's fault』に繋がっていくと思うからだ。

『Nobody's fault』の歌詞は口調が荒く、主張が強く、その内容も非常に癖がある。熱くて、冷たい。現実感に欠ける。だから、捉えるのが難しい。しかし、実際に歌詞を言葉にし、表情を作り、そして踊るのは、目の前にいる現実のメンバーたちなのだから、であれば、楽曲に対してメンバーたちがどのように向き合い、どのように消化し、どのようにパフォーマンスしているのか、その様が確かな糸口になるはずだ。

ただし、それにしたってこの楽曲、パフォーマンスに説得力を持たせるのは非常に難しいのではないか。なにせ、とにかく、主張が強い。欅坂46「THE LAST LIVE」、「櫻坂46 デビューカウントダウンライブ!!」、その年の紅白歌合戦、後から観返してみても、やはりちぐはぐな印象が否めなかった。これからどうなっていくのかの見当がつかず、不安の声がメンバーから出ることも少なくなかった、あの状況下でのパフォーマンス。イマイチな印象になってしまうのはもはやシカタナイように思う。

No! No!No! 他人(ひと)のせいにするな
鏡に映ったおまえは誰だ?
勝手に絶望してるのは
信念がないからだってもう気づけ!

櫻坂46『Nobody's fault』

表層の演技だけでコレに説得力を持たせるのは土台、無理な話。であればグループが、メンバーが、それを体現する存在にならねばならない。そして、その芽が見えてきたのは、やはり「W-KEYAKI FES.2021」あたりだと思う。

泣き言なんか聞きたくもねえ
どんなに悔やんでも 叫んだって…
やるか ?やらないのか?それだけだ
もう一度 生まれ変わるなら

櫻坂46『Nobody's fault』

あの日、野外の会場で終始、雨が降っていたのも、もはや、そういう演出のように思えてしまう。やるしかないじゃん。

しかし、前述のとおり、あのライブは「歪み」を浮かび上がらせてしまった。あのときの無力感。それを踏まえたうえでの「1st TOUR 2021」、その先で迎えた「1st YEAR ANNIVERSARY LIVE」。

(ゆえに、3rdシングルの表題曲が『流れ弾』だったという采配、そのセンターが森田ひかるではなく田村保乃だったという采配は、極めて効果的だったと思う。この楽曲のパフォーマンスは全体的にとても感情的で、荒々しい。ゆえに、メンバーの熱量を直接的に感じやすいのだ。)

あの『Nobody's fault』には、まさに、このような一年間の集大成として相応しい、櫻坂46としての自信に満ち満ちたメンバーたちの姿があった。そして、その中央で一際強い存在感を放つ、森田ひかる。ひとつ上の階層からこの世界を俯瞰するような、すべてを見透かすかのような、さらにはもはや、ニヒルに片足を突っ込んだかにも見えるような、そんな目つきと表情をした森田ひかるによって表現される『Nobody's fault』。それを観ているうちに、『BAN』の頃から抱いていた罪悪感のようなものが包み込まれていくような、そんな感じがした。(つまり、勝手に想像して、勝手に罪悪感を抱くようになり、それが勝手に許されたと思い、勝手に救済を感じた、ということになる。あまりにも都合が良い。)

 

あの『Nobody's fault』を経て、これからの櫻坂46が、どのようなものを見せてくれるのか。それがひたすらに、楽しみになった。彼女たちがそのときそのときで見せてくれるものを見ていきたい、見続けていきたい、という確信ができた。『Nobody's fault』の手綱を握った櫻坂46なら、なんでもできるんじゃないか?

本当に、あのときは、素直にそんなことを思っていた。